あの夏よりも、遠いところへ
「蓮はええなあ」
ふと、サヤがひとりごとみたいにこぼした。
「なにが?」
「好奇心旺盛やし、好きなことなんでもできるやん。こないだはバスケットボール持っとったやろ?」
鍵盤にワインレッドのカバーを掛けながら、彼女の横顔が少し淋しそうに微笑む。
ボールを持っていたなんて、そんなことまで覚えてんのかよ、すげえな。
「サヤだってピアノ弾けるやん」
「……私には、ピアノしか無いねんよ」
「そうなん?」
「うん。昔からなにやってもダメダメで、色んなこと諦めて生きてきてん。……だからちょっと、蓮に嫉妬や」
なんてね、と笑って、俺の髪を優しく撫でる。
細くて白い指がするすると抜けていくのが儚げで、なんだか不安になった。だから掴んでいた。日焼けした俺の手のひらと見比べると、サヤの手は本当に真っ白なんだ。
「ほな、いろんなことしよう!」
「え?」
「俺がサヤにバスケ教えたる。夏やし、プールにも行ける!」
頭の悪い俺は、これくらいのことしか思い浮かばねえけどさ。
それでも彼女は嬉しそうに笑う。ありがとうと、泣きそうな笑顔で言う。
「でも私、プールなんて行っても溺れてまうんちゃうかなあ」
「そんなん俺が助けたるわ!」
「あはは、さすが蓮やね。頼りにしてるで」
俺が彼女の手を握っていたはずなのに、いつの間にか彼女のほうが俺の手を包み込んでいた。
早く大人になって、サヤよりも背が高くなればいい。そしたら彼女をどこにだって連れていけるのに。
子どもは気楽だなんて思っていたけれど、いまはすげえ、もどかしくてしょうがない。