あの夏よりも、遠いところへ
俺が鍵盤を叩くたびに、サヤは嬉しそうな顔をしてくれた。
「蓮は覚えが早いなあ」
「ほんま?」
「うん、すごい。悔しいくらいや」
彼女は褒め上手だと思う。だから、褒められて伸びるタイプの俺はどんどんピアノを好きになったし、どんどん上達していった。
まだ簡単な曲しか弾けないけれど、もっと色々なことを覚えたい。
「じゃ、きょうはこれでおしまい」
「もう?」
「うん。また今度な」
ふと振り返ると、窓の外ではもう、陽が傾き始めている。ここに来てから何時間経ったのだろう。
「……俺、あしたから夏休みやねんか」
「うん、言うてたね」
「だから毎日来れるし! ……その。毎日、来てもええやんな?」
思わず椅子から立ち上がった俺に、彼女は驚いたように目を見張っていたけれど、自分でもなかなか驚いていた。
そしてわりと恥ずかしい。後先考えずに行動する癖、治らねえかなあ。
「……ふふ、うん、ええよ。でも毎日レッスンしよったら、私なんかすーぐ追い抜かれてしまいそうや」
それでもサヤはそんな俺に、困ったように首を傾げて笑ってくれた。
よく分からない気持ちだ。もやもやして、けれどちょっとくすぐったいような、逃げ出したいような、笑っちゃいそうな。
……なんだろう、これ。