あの夏よりも、遠いところへ

たった一音だけで、こんなに違うのか。ピアノって思っているよりも奥深い楽器なのかもしれない。


「この音がド。真ん中の音やで」

「う、うん……」


突然始まったレッスンに戸惑いながらも、楽しそうに教えてくれる彼女に、俺もなんとか食らいついた。

難しくて繊細な楽器だ。時たま頬を撫でる彼女のやわらかい髪にどきどきしていると、すぐに変な音が出る。


「ドレミファソラシド、弾けるようになったやん。やったね。今度は楽譜の勉強しよか」

「……サヤは、ピアノの先生なん?」

「ちゃうちゃう、趣味でやってるだけ」

「え、そうなん? 教えるんめっちゃ上手いやん!」

「ほんま? 音楽の先生になりたかったからかなあ。嬉しい。ありがと」


サヤはたぶんもう大人の女の人なのだろうけれど、まるで少女のような笑顔をこぼした。

白い頬が少しだけ赤く染まるのがかわいいなあって、いや、俺のほうがずいぶん年下なんだけどさ。


「……なんで教師にならへんかったん?」

「んー……色々と事情がね」

「事情?」

「あはは、まあええやんか。ほら、次は楽譜やで」


事情っていったいなんだろう。

そうは思うけれど、楽しそうにト音記号だの八分音符だのと説明している彼女の横顔を見ていると、なんだかどうでもよくなってくる。

それにしても専門用語だらけで難しいぜ。軽い気持ちでここに座っていることがなんだか申し訳ないくらいだ。
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