海淵のバカンス


「そのボンベ、」
「嗚呼…、これか…」


程なくして、機嫌の直ってきた兎々に波人が呼び掛ける。
ダルそうに頭だけを動かし、説明を始められるのは、きっと研究者の彼女だからなのだろう。
彼女は、兎々は、何かが人として欠けているかのような人間だった。
何事にも動じず、淡々と物事を整理する。
そんな彼女は今、他にも人して欠けているものが見受けられた。


「いい加減、苦しいだろう」


そう言った兎々の横に、小魚が泳ぐ。
兎々の口が開閉する度に、泡がゴボ、と出ては上へ登り消えていく。
初志、波人の頭の周りには綺麗な円形の泡が出来ており、その周りには稚魚が悠々と円を描きながら気持ち良さげに泳いでいる。
そんな中、兎々は優々とボンベのバルブを捻り、波人を包み込んでいる泡の中へ口径を入れ酸素を送ってやる。
何回かに分けながら酸素を送ってやると、二酸化炭素が詰まった泡のみが、兎々の泡と共に上へ登っては、消えていった。

ここは、海底園と呼ばれた場所だと、前夜兎々が話してくれていた。
ここは、この時期には満潮になる場所で一週間程はこの状態が続くのだと言う。
生殖運動、所詮セックスと呼ばれる行為中だと言うのに、なんて色気が無いのだと毒づいた波人だったが、歪み始めた月明かりが照らす彼女の裸体にそんな毒づきなぞ、泡と共に消えていった。


「海風さん」
「なんだ」
「何か出てます」
「ん?」


嗚呼、といつも通りに返答するいつも通りではない彼女に、一途の不安を覚えた。


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