柔き肌に睦言を
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私が美術部に入ってまで絵を描こうと思ったのは、たぶん父の影響だ。
初めて絵を描いたのは一歳の頃、鉛筆を握らせてもらってのなぐり書きだった。おそらく多くの人が経験する、これは成長過程の一つの出来事だろう。その時は「絵を描こう!」などと、会社興そう!自主映画撮ろう!みたいに意気込んだわけではもちろん無く、ただなんとなくそこに鉛筆が転がっていたから手に取ってふにゃふにゃとやってみただけで、まったくただそれだけだった。
絵を描いて生きていく、なんて今からすればおよそ現実的でないことを大真面目に考えてしまったのは、やはり父のせいなのだ。
私の父は画家だった。ご多分にもれず「売れない」という形容詞がつく。
私は父の絵が好きなので、売れないわけはいまだにわからない。なので、運が無いのかも知れないと思う。
売れない画家はみじめだ。稼ぎが無いので家族を養うことができない。筆を捨てるか家族を捨てるかの決断を否が応でも迫られる。父は後者を選んだ。選ばされたと言っていいだろう。つまりは家族に捨てられたのだ。しかたのないことだ。母の決断は正しい。私がいうのもなんだが、母は賢く美しい人だった。賢かったなら売れない画家と結婚などという失敗はしないのでは、という疑問は、私が生まれてこなくなる可能性を考えることになるので、忘れておいてもらう。
母は父と別れ、ゆとりのある生活をしている年上の男と再婚した。その時私は十五歳。新しい生活にうまく馴染めなかったので、ゆとりの継父は近所のこぎれいなアパートの一室を借り上げて、一人暮らしをさせてくれた。高校受験を控えていたので、専念させる意味もあったのだろう。
実父と離れて暮らすのを辛いとは思わなかった。いずれそうなるのだろうと思っていたし、この時期になってやっと離婚とは、遅いくらいだ。賢く美しいが手に職の無い母は、スーパーのレジ打ちなどのパートで今まで良くがんばったと思う。社交性もそこそこあり、お酒も飲めるのだから、夜の仕事をしてもよかったのだ。その方が稼ぎもいいだろう。でも母は夜に私のそばにいられないのは嫌だと言って、それはしなかった。今にして思えば、夜の仕事に対する偏見に母のプライドが警鐘を鳴らしていたのかもしれない。
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