月陰伝(一)
「今着きました」
『おおっ、待っとったぞ〜ぉい。
今迎えが行くからなぁ』

”向坂大学”

この辺りで最もランクの高い私学の大学だ。
経済学部から医学部、教育学部、理工学部芸術学部などあらゆる学部を持つ。
生徒や講師が、自由に研究できる事がうりのこの大学はこの時期、全学部が参加して行う、研究発表会が開催される。
この発表会は、世界中から様々な分野の企業や研究者が、未来の有能な研究者である生徒達と教授達の研究を目当てに集まってくるのだ。

「すみません、真紅結華さんですか?」
「はい」
「お待たせしました。
私は、桂教授のアシスタントをしています、神城雪仁と申します。
研究室までご案内します」

丁寧な挨拶と共に、人好きのする笑みを浮かべた青年は、すぐに学内へと案内してくれた。
勝手知ったる大学だが、一応、部外者である立場上、素直に彼についていく。
しかし、研究室に着き、ドアを開けた途端、ここに来たことを後悔した。

「桂教授っ、彼女ですか?!
初めましてっ。
僕の方もお願いしたいんですっ」
「抜け駆けしないでっ。
私が先よっ。
あんた達は自分の力でやりなさい」
「そうだぞっ生徒は自力でやるもんだっ。
私の方も頼むよ」
「おいッ君達ッ。
ワシが呼んだんじゃっ。
さっさと自分達の巣穴に帰れッ」
「狡いですよっ」
「こっちも一杯一杯なんですよッ」

何だかカオス…?

「結ちゃん、取り合えずフランス語から頼むぞい。
その後、ドイツ語とイタリア語、あ〜っ中国語もあったわい」
「私の方は、中国語とイタリア語だけで良いから」
「僕の方は、ドイツ語とフランス語ね」

『待ってるよ〜』と言って追い出されていく他の教授達を見送り、さっそくパソコンの前に座った。

「桂教授……私はこのままだと最悪、全ての論文に目を通す事になりそうなんですけど…どう言う事ですか?」

私がこうして語訳をできる事は、昔からの知り合いである桂教授にしか話していない。
この時期だけの秘密のバイトだ。

「この前、ポロっと言ってしまってなぁ〜。
ワシのバイトは、全部の訳を一人でできるんじゃぞ〜ぉ。
ええじゃろ〜ぉってな」

何言ってくれちゃってんのっ!!。

「教授が言ってた人が、こんなに若い女性とは思いませんでしたよ」
「ほほっ、若いじゃろ?
まだピチピチの女子高生じゃぞい」
「ッえっ?!」

そんな会話をスルーしながら、ひたすらキーボードを打ちまくる。
付き合っていたら、終わらない。
何てったって、恐らく今、大学中に手配書が回っている。
気配で分かる。
ドアの外に出待ちの行列が出来つつある事。
この大学の合い言葉は『使えるものは逃さず使え』だ。


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