ポケットに婚約指輪

 歩いたのはほんの数分だ。だけど、気持ちが悪いからなんだかすごく時間がかかったような気がする。


「こことかどう?」


顔を上げて驚いた。いつの間にか一本路地を入った歓楽街に入ってきている。
喫茶店かと思ったそこは、商業ビルの間にあるホテルだ。訳が分からず、何度かまばたきをして確認すると、入り口に書いてある【ご休憩】の文字を見つけた。つまり、そっち目的のホテルってこと?


「え? あの」

「休憩。少し休んだほうがいいよ」


武井さんの表情は変わらない。何もおかしなことはしていないっていうような平然とした顔だ。

ちょっと待って。おかしいよね。コレっておかしな事だよね。


「だって、武井さん彼女がいるって」

「うん。だから。休憩するだけだってば」

「や、休憩なら喫茶店とかで」

「大丈夫。何もしないって。俺も彼女いるし。後々面倒くさいことになるのはごめんだからさ。ただ、横になったほうが楽でしょ?」


武井さんには罪悪感のようなものは全くないみたい。

もしかしたら本当に何もする気は無いのかもしれないけど。
私は嫌だ。よく知りもしない人とこんなホテルに入るなんて。

そういうの平気なの? 
舞波さんも時々モラルを疑う時があるけど、類は友を呼ぶってやつなの?


「大丈夫ですから帰ります」


 すぐさま振り向いて駆け出そうとした。だけど、頭がぐらりと回って視界が暗転する。


「……ったい」


気がついたら、地面に膝をついていた。


「危ないよ、菫ちゃん。ほら、やっぱり休んでいこうよ」


悪気ない調子で、武井さんは笑いながら近づいてきた。


「大丈夫? 吐きそう?」


立たせてくれようとしているのか、二の腕の辺りに伸びてくる色黒の大きな手。
その動きを視線で追っていると、自然と自分の胸元のネックレスが見える。


……司さん。
司さんに会いたい。


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