猫 の 帰 る 城
彼はまた、困ったように笑っていた。
一歩近づいて、わたしの目元に触れようとする。
途端にいまの自分の格好が、とんでもなく可笑しなことに気づいて、慌てて顔を隠した。
「待って、やだ、恥ずかしい」
寝間着が覗くスプリングコート、化粧をしていない赤ら顔に、風邪気味とくる。
先ほどまでベッドでうなだれていて、おまけにそのままマンションから爆走してきたのだ。
プロのメークとスタイリストが作り上げた、完璧な自分を見られたあとでは、たまったものじゃない。
「今さら何言ってるの」
彼は呆れたようにまた一歩近づいてきたから、慌てて全力で押しのけた。
「やだ、ぜったい、やだ!」
「小夜子」
「ずるいよ。そんな恰好よく登場しちゃって。ちゃんと言ってよ。わたしだって、鼻水垂れてないときに、会いたかった」
「垂れてないよ。それに、風邪を引いたのは僕のせいじゃない」
「うるさい。ちゃんとお化粧して、可愛いお洋服着て、もっと、ちゃんと、いい女になったって、思って欲しかったのに」
彼は楽しそうに笑っていた。
こっちは本気で言ってるんだから、笑ってんじゃないわよと言い終わるその前に、不意を突かれて、顔を隠した手首を掴まれてしまう。
見せたくないと思っているのに、彼に触れられるだけで抵抗できないのが悔しかった。
わたしの手をそっとのける。
目が合うだけで、心臓が縮むような思いをしていること、この人は知っているのか。
恥ずかしくてどうしようもないのに、その目を離したくないことも。
「小夜子が言ったんだよ」
目を閉じたら、また夢のように、消えてしまうんじゃないかって
ほんとうに怖くて、涙がとまらなくて、苦しいことも。
「迎えに来てって」
ぜんぶ。
――――わたしがいなくなっても、わたしの傍にいたいと思ってくれるなら、二年後、卒業したら、迎えに来て
息がとまる。
都合のいい夢でも見てるんじゃないかと、ここまで来て、本気で思ってしまうくらい。
自分が言っておいて、嘘でしょうと、言葉が漏れて、遅れて湧き上がってきた喜びに、笑みが零れた。
この二年、一方的で、根拠のない、不確実な期待を恐れながら、それでも、半ば約束のように、強く、何度も心で唱えてきた。
ずるい。
どうして。
笑顔に涙を落としたくなくて、慌てて俯いたけれど、余計に我慢がきかなくなって、息が震えてしまう。
どうしようもない感情の高ぶりが、胸に苦しい。
「そんなくだらないこと、覚えててくれたの…」
彼は呆れたようなふりをして、けれど少しだけ真面目な顔で、笑ってみせた。
それからわたしの頭をそっと撫でて、優しく引き寄せる。
彼のにおい。
胸の温かさも、広さも、硬さも、わたしをすっぽりと包んで、その懐かしさに、また何かが溢れてきて、それをこらえるように、きつく目を閉じた。
「くだらないことかな」
彼の腕の中で、何度も強く頷いた。
くだらない。
くだらなくて、すごく些細で、ちっぽけで、不安定で。
決して、大それたことじゃない。
だからこそ、それを交し合えたときに、こんなにも胸を熱くできるのだと、彼に伝えたかった。
大きな声で彼が好きだと叫びたくなるし、抑えられないくらい泣きたくなる。
そうでなければ、きっとつまらないだろう。
「ありがとう」
だいじょうぶだ。
再び目を開いても、きっと彼はいてくれる。
もう二度と、この言葉を口の中で呟く日はこないだろうと思った。
わたしが手を伸ばせば、彼がしっかりと受け取ってくれる。
ああ、やっぱりずるい人だと、思ったときには、もう隠すことなく泣いていた。
温かな涙で滲んだ世界で、彼の声だけが、しっかりとわたしを包んでくれる。
「おかえり、小夜子」