猫 の 帰 る 城




書店の前に彼はいなかった。

日差しが透ける自動ドアを抜けると、携帯電話で時刻を確認した。
もう来ているはずだった。

平日の午後、人はまばらだった。
買い物帰りの主婦や、外周りのサラリーマンがちらほらと目につくだけだ。


どの棚だろう。

ビルの中に入るこの書店は、三階までを占めていた。
上階には専門書などが数多く並んでいる。


入ってすぐ目に入る新書のコーナーに姿はなかった。
続いてその奥の文庫本コーナーに移ってみる。

見当たらない。

そのまま右に折れて、青年から少女までの漫画の棚を確認し、学生向けの問題集が並ぶ棚を抜けていく。

いない。


二階かもしれないと思い、再び入口前にある階段へと足を進める。

旅行雑誌の棚も抜けていき、レジの前を通り、新書コーナーが再び見え始めたときだった。


視界の端に映る。最新のおしゃれ、アイテム、ブランド。
それらが詰め込まれた本たちの間に、彼は立っていた。

それはたぶん、可笑しな光景だった。
プラダのバッグも、シャネルの口紅も、きっと彼には必要ない。

ニューヨーク生まれのファッションマガジンを立ち読みする彼は、記憶の中よりずっと背が高い気がした。


一歩、近づく。

夢の中ではあんなにも遠くにいた人が、現実となってわたしの前にいる。
また一歩と近づいても、彼は決して消えたりしなかった。

手を伸ばせばすぐ触れられる距離で、こちらの視線に気づいたその目と、わたしの目が合う。

そこには、初めて視線を交わしたときのような、息を呑む胸の高鳴りがあった。



「十分遅刻」


低く落ち着いた、真っ直ぐに伸びる声が、わたしの耳に届いて震えた。
その鮮明さに、言葉がつまる。

こんなにも胸を締め付ける。息が出来ない。

言葉にしたいことがたくさんあったのに、ぜんぶ吹き飛んで、何を言ったらいいのかわからない。


「…嘘。ほんとうは来てくれないかと思ってた」


黙ったわたしに、彼は真面目な顔を崩し安心したように笑った。

彼は記憶の中よりも、数段凛々しく、きちんと大人になっていたけれど、繊細な瞳を細め、少しだけ困ったように笑うその癖は、あの頃のままだった。


それから、手に持っていた雑誌をわたしに見せる。

表紙は見なくともわかっていた。

白い背景に、チュールを重ねた黒のベアトップワンピース。
真っ赤な唇で、挑発的に笑う女。

これを撮ったのは、確かまだ厚手のコートが手放せない季節だった。


「ずっど、見てたんだ」


顔をあげる。
目の前の彼が笑うと、夢の中の、少しだけ幼い彼がそれに重なった。

いま笑いかけてくれているのは、きっと、あの夏の日の彼だ。

わたしが傷つけた。

やるせない愛と、怒りと、悲しみと、苦しみと。
すべてが入り混じった彼の最後の顔が、わたしを苦しめていたそれが、そっと柔らかなものに変わる。

がんじがらめだった鎖が、春の日差しにとけていく。
こんなにも、温かい。


「ちゃんと、見てたよ」


その言葉だけで充分だった。

夢の中で伸ばしたわたしの手を、彼は優しくとってくれた。
それだけで胸が熱くなって、どうしようもない。


今まで誰の賛辞でも生まれなかった感情が、あっという間に溢れてわたしを満たして、気づいたらそれは零れていた。

どうやって止めたらいいのかわからなかった。
溢れて、溢れて、ばかみたいに止まらない。

声も出せない。
ただ静かに、枯れてひび割れてしまいそうだった心に、熱が生まれるのを確かに感じた。


冷たい涙はたくさん流してきた。
報われることなんてない、どこにも落ちるところのない涙は、この二年で嫌というほど流してきた。

それなのに、いま零れるそれだけは、胸にすとんと落ちてきて、じわりと、素直に心にしみていく。


ああ、きっと、こんなにも温かな涙は、わたし自身ではどうしようもないのだ。

だってこんなにも苦しくて、やるせないのに、どうしようもなく幸せなのだ。





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