猫 の 帰 る 城
「ヒロがバーで働いているなんて、ちょっと意外だったな」
真優はバーボンを一口ふくむと、ゆったりと口を開いた。
僕が視線をやると、彼女は微笑みを返してくる。
こちらを見上げる目は少しだけ潤んでいて、頬もよく見れば紅潮している。
どうやらここに来る前にすでに一杯やってきたようだ。
酔っているからと言って油断はできない。
力強くグラスを拭って答える。
「特に理由なんてないよ」
「あたしは、まだあそこの書店でお世話になってるんだ。新しい仕事、見つけようと思ってるんだけど、なかなか踏み出せないんだよね」
真優はそう言って、僕も知っている書店の女性社員が結婚した話をする。
妊娠をしている、相手はエリート商社マン、じきに寿退社。
僕は適当に相槌を打ちながら、同じグラスを繰り返し磨いていた。
話が落ち着いたところで、会話が止まる。
彼女はもったいぶるようにゆっくりとグラスを傾けた。
本題に入るのかと構えてみても、いつもと変わらない様子で思い出したように言う。
「学校はどう、ちゃんと行ってる?」
真優はただ世間話をするためにここまで来たのだろうか。
いや、今更取り立ててする話もないから、それはそれでいいのだが。
彼女に悟られないように、壁時計の針に目をやる。
僕の今日のシフトは零時半までだ。
もう少しすれば、店長があがっていいと言ってくれるだろう。
僕は再度、グラスを強く拭った。
「…行ってる。退屈だけど、留年は御免だからね」
ふうん、と曖昧な返答が返ってくる。
すると真優は顔をあげ、何の感情もない目で僕を見上げて言った。
「小夜子さんは、大学、辞めたみたいだけど」
まったく予期せぬ言葉だった。
油断はしていなかったが、それでも僕の心臓は驚くほど大きく音をたてる。
真優に視線を走らせると、彼女はまた少しだけ笑ってみせて、グラスに目を落とした。
「…ヒロの大学に、友達がいるんだ。その子が言ってたんだよ。急に辞めちゃったって、誰も理由知らないって。妊娠しちゃったんじゃないかとか、やばい仕事をしてたんじゃないかとか。学校で噂になってるんでしょう」
一瞬にして火がついてしまったように、僕の全身は怒りで熱くなった。
沸騰した血液が恐ろしい速さで脳天に逆流してくる。
「そんなんじゃない」
僕は吐き捨てるように言った。
そういった噂が流れていることなど、まったく知らなかった。
小夜子と近しいと思われていた僕は、耳に入らぬよう意図的に避けられていたのかもしれない。
妊娠?
やばい仕事?
くだらないと思った。
大学の奴なんてその程度だろうとは思っていた。
しかし言われる相手が小夜子であると、くだらない噂でも笑えなかった。
彼女はそんな生半可な意思で辞めたわけじゃない。
必要なものを得るために、何かを捨てなけらばいけなかった。
それが彼女にとっては学だった、それだけのことだ。
何も知らないやつが、面白おかしく話していいことなんかじゃない。
心の中で、様々な怒りが怒涛のように飛び交った。
それなのに、なにひとつ言葉に出来なくて、僕は黙っていた。
どうしようもない腹立たしさと、彼女への感情がいっぺんに溢れ出してとまらなかった。