製菓男子。
一番やさしかった母が家を出たのは、塩谷さんの大切な人が亡くなったあの大惨事の翌年だった。
ノートには克明に書いてはいないけれど、母が父に対して絶対に耐えられないことがあったようだった。


そしてわたしの周りにやさしい人がひとりもいなくなった。


その頃の兄はわたしには無関心だったし、学校にも話し相手がいなかった。
でも、肉親である父を困らせたくなくて、頑張っていつも通りを装っていたように思う。


その夏に、塩谷さんがやってきた。
そしてわたしに、お菓子を作る未来を見せた。
それが今に繋がっていて、わたしは塩谷さんのもとで働いている。


わたしがノートに関してすっぽり忘れていた期間は、おそらく塩谷さんを忘れていた期間で、塩谷さんは理由がわかっていたようだけれど、わたしはさっぱり思い出せない。
ただノートを開いたことで、徐々にだけれど、昔の閉じていた“いやなこと”以外の記憶が脳裏を掠めるようになった。


思い起こせば、お菓子を作り出したあの日あたり、おそらく塩谷さんに会った日くらいから、わたしは前髪を伸ばし、黒い服を好んで、肌を露出することを控えて日陰にいることを選んだ。


(小学四年生の頃からだから、それでつじつまがあうんだよなぁ)


そんな外見になってから、友達がいなくても平気になって、ひとりでいることがすきになって、当然になって、罰を受けているつもりになるまでに落ちたような気がする。
わたしがわたしになったのは、あの日が分岐点だったのだろう。
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