たなごころ―[Berry's版(改)]
「猪俣笑実。男が女へキスをする場所で、意味が違うって知っているか?」
「知りませんよ、そんなことっ」
「首筋にしなかった俺に、感謝しろよ」

 楽しげに口角を上げる箕浪を前に。笑実は観覧車の窓際一杯まで、身体を寄せ逃げるのが精一杯だった。

 ※※※※※※

 昼休み時間をむかえ、笑実は図書カウンターにひとり居た。同僚は食堂へ行っている。改めて周囲を見渡し、誰も居ないことを確認してから。笑実はこっそりと、持参した通帳を膝の上で広げる。最後に記帳されている金額を、指でなぞって。昨日から、何度も眺めている数字。眺めているからと言って、それが増えることはないけれど。笑実の社会人としての歴史でもある、その数字。大きなため息をひとつ零してから。笑実は通帳を閉じ、棚にある鞄へと再び仕舞い込んだ。
 箕浪からの告白を受け、笑実は心を決めていた。違約金を払い、箕浪らとの関係を絶つことを。もっと早くに決断するべきだったのだ。事が大きくなる前に。いや、もう手遅れかもしれないが。今のままでは居られないのだからと。

「猪俣笑実さん?」

 自身の名前を呼ぶ声で、笑実は思考の渦から呼び戻される。カウンターの上には、綺麗に整えられ、彩られた爪先があった。そこから視線を徐々に上げ、主を確認したとき。笑実を軽い眩暈が襲う。
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