たなごころ―[Berry's版(改)]
 箕浪と笑実が本社へと赴いたあの日。日が沈みかけた夕刻。喜多がこの『わにぶち』を訪れると、箕浪がひとり、店に居た。騙まし討ちのような形になってしまったこと。加えて鈴音のこと。どれだけ不機嫌でいるかと覚悟していた喜多であったが。意に反し、若干沈んでいる箕浪の様子に、首を傾げる。
 どうしたのかと尋ねてみれば。笑実が倒れたのだと言う。社を出たところで笑実が酷い眩暈を訴えたと。そのため、彼女は『わにぶち』へ戻ることなく、帰宅させたと。話の最後には、「大丈夫だといいけれど」と小さく一言付け加えて。
 箕浪の声色から、態度から。彼が笑実の体調を気に掛けていることは、喜多も手に取るように分かったのだが。
 笑実本人から、体調が優れないのでアルバイトを休ませてほしいと連絡が入ったのは。その翌日のことだ。『わにぶち』へではなく。喜多の携帯電話へ、であるが。
 つまりは、それ以降。笑実と箕浪は連絡を取っていないことになる。あれほどまでに気に掛けていた笑実の体調を。箕浪は意図的に確かめていないのだ。

 確かに、笑実と契約を交わしたのは喜多である。その場に箕浪は居合わせていなかった。邪気にしていた箕波が、笑実と連絡先の交換をしているとは思えない。
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