たなごころ―[Berry's版(改)]
 喜多の張り上げた声に、鈴音は口を噤む。穏やかだった先ほどまでの喜多の表情は、もうそこにはない。
 箕浪はただ、椅子に腰掛けたまま。事の成り行きを見守っていた。
 鈴音と喜多、ふたりの今の会話から、事前に何かしらの取引があったことは間違いないだろう。自身が関わる問題であるはずが、自分の与り知らないところで話が進められるほど、面白くないことはない。だが、今ここで。その事実を追求しようとも、箕浪は思わなかった。ただ、変わることなく。棘のある視線を鈴音に向けるだけだ。

 男性ふたりの態度に、鈴音はここは一旦引くしかないと判断する。悔しさは残るものの、あまりにも分が悪い。長引かせることも、今後を考えればマイナスでしかない。小さく息を吐いてから。鈴音は未だ肩を掴んでいる喜多の手を振り払った。髪をなびかせ、踵を返す。ヒールの音を響かせながら。出口を目指していた歩みを、鈴音は一度止め、肩越しを振り返る。

「箕浪さん。私は諦めないから。……貴方が昔の姿を取り戻すまで、少なくとも。私に望みはあるだろうから」

 箕浪からの返事を待つことなく、鈴音は『わにぶち』を後にした。甘い香りだけを、忘れ物のように残して。鈴音の背中を、箕浪と喜多。ふたりは、無言でそれを見送った。

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