社内恋愛のススメ
さっき見えたのは、ただの幻。
本物なんかじゃない。
当たり前じゃないか。
長友くんは、ここにはいない。
私の近くに、長友くんがいる訳がない。
分かっていたのに。
そんな簡単なこと、すぐに分かるはずだったのに。
(………長友くんじゃない。)
目の前に広がるのは、ビルの群れ。
灰色のコンクリート。
そこに、やっぱり彼はいない。
長友くんはいなかった。
気が付けば、もう会社の近くで。
ほんの数秒歩いたら、着いてしまうほどの距離だ。
バカだ。
ほんと、バカ過ぎる。
バカな自分に呆れて、肩を落とす。
「すいません、………何の話でしたっけ?」
本当は覚えてる。
桜井さんと、何の話をしていたのか。
桜井さんが、どんなことを話してくれたのか。
今日付けで、本社から来る人がいるのだと。
そのことを教えてくれた桜井さんに、他意はないのだと。
桜井さんは知らない。
何も知らないのだ。
私が本社から、ここに飛ばされてきた理由。
本社から離れなければならなくなった、その訳を。
聞こえなかったフリをしたい。
何も聞いていなかったフリをしていたい。
今だけは、どうしても。
あの幻が、私を切なくさせるから。
長友くんの影が、私の心を締め付けるから。
「もう、実和ちゃんってば。まだ寝ぼけてるの?」
「………ははっ、昨日、ちょっと寝るのが遅かったので。」
「しょうがないわね。本社から、異動で人が来るだって!」
仕方ないなと、笑いながらそう再び教えてくれた桜井さん。
汗が滲む。
滲んだ汗が、朝の寒さでスーッと冷えていくのを感じる。
大丈夫。
大丈夫だ。
桜井さんには気付かれてない。