社内恋愛のススメ
最後に彼女の顔を見たのは、いつだっただろう。
そう。
あれは、彼女が本社を去る日だ。
人事部に呼び出される彼女を、遠目に見ていた。
遠い。
走ればすぐに追い付くはずの距離が、異様に遠く感じてしまう。
遠く離れた彼女は、僕の姿に気が付かない。
俯いて歩く彼女。
僕の愛した彼女。
僕が壊したのは、彼女の心だけではない。
あんなに頑張っていた彼女の未来さえ、僕はこの手で壊してしまったのだ。
壊れてしまえばいいと思っていた。
全てが壊れれば、この心も晴れるだろうと思い込んでいた。
しかし、残ったのは虚しさだけで。
「実和………、すまない………。」
小さな声で、彼女の名前を囁く。
もう聞こえない。
僕の声は、彼女の耳には2度と届かない。
薄暗い部屋の中。
閉じていた瞳を開ければ、体の重さにふと気が付く。
昔のことを思い出していたせいだろうか。
愛しい彼女のことを思い出していたせいだろうか。
心が重くなり、波及する様に体までもが重くなる。
ぼんやりと映るのは、サラリと揺れる黒い髪の女。
艶やかな黒髪が、動きに合わせて揺れる。
僕から、実和を奪った女。
強引にまで、結婚を推し進めた女。
妻の文香だ。
「仁さん、起きたのね。」
文香が、柔らかな声で僕のことを呼んだ。
僕の頬に触れようとする手。
拒絶する様に、スッと顔を背ける。
視界の端に、細い手首に無数に走る傷が映り込む。
(文香………。)
僕は、最低な男だな。
僕が傷付けたのは、実和だけじゃない。
妻となった文香の心も、今もこうして傷付け続けているのだから。
文香の細い手首にある、無数の傷。
それは、文香自身が付けたもの。
僕を求める妻が、自分の体を自ら傷付けたのだ。