彼女のすべてを知らないけれど
逃げるように、アパートに戻ってきた。急いで鍵を開けて中に入り、背中を引きずるようにして玄関扉にもたれる。
「危なかった……」
あと少しで、あの猫を触りそうになってしまった。
「もう、猫なんて飼わないし可愛がらない 。決めただろ……!」
クロムのことが忘れられない。それなのに、ロシアンブルーの弱々しい瞳が忘れられなかった。エメラルドグリーンの綺麗な瞳 は、捨てられた瞬間を映したかのように青く澄んでいた。
あの猫は、飼い主のことを思い出し、胸を痛めたりするのだろうか。どんな気持ちで毎日を過ごしているのだろう。飼い主もなく、仲間も作らずに……。
出会って間もないロシアンブルーに、俺は、自分の心情を重ねていた。
「猫にだって、意思があるんだよな……。どうしてひとりになったのかは知らないけど、あの猫だって、飼い主と別れて寂しいに決まってる」
胸が苦しい。ロシアンブルーを見捨てた自分が、嫌になる。
つぶやく俺に答えるかのように、玄関に面したキッチンスペースから声が返ってきた 。
「それが分かっているなら、なぜあの猫を助けなかった?」
若い男の声。黒いスーツに黒い髪。焦げ茶色の切れ長な目。
「なっ、何ですかあなたはっ!!」
勝手に侵入し、ダイニングテーブルの上に腰をおろす怪しい男。しかも、偉そうに腕と足を組んでこっちを見ている。
俗に言うイケメンなのが更に怪しさを増している。俺は身構えた。
今朝、大学に行く前にしっかり施錠したはずだ。寝室やリビングの窓はもちろん、玄関の鍵だって。