彼女のすべてを知らないけれど
「俺が望めば、クロムは……」
俺の両手は震えた。
信じられない、夢のような現実。
クロムが生き返ってくれたら、今すぐにでも俺は実家に戻るだろう。ペット禁止のこのアパートを飛び出して。実家にはすでに新しい猫がいるが、そんなのかまわずクロムの世話をする。
しかも、都合の良いことに、両親や周りの記憶からは、クロムの死に関する出来事が消えているというではないか。自分さえ黙っていれば、お守り(命守流願望成就札)を使ったことなど誰も気づかない。
皆の記憶に残るのは、俺が一時的に一人暮らしをしていたという事実だけ。
もう、悲しまずに済む。
生きていた頃のクロムを思い出して泣いたり、捨て猫を見かけて複雑な思いにかられることもなく、幸せだった頃の続きを体験できるんだ。
なんて素晴らしいのだろう。クロムがいた日々。悲しくない日常。
「……でも」
幸せな日々をたっぷり想像した後、俺は目の前の現実を見た。
一人暮らしに慣れつつある自分。
クロムの死を受け入れた自分。
「せっかくだけど、やっぱり、これはいらないよ」
俺は、テーブルの上に朱色のお守りを置き、涙のにじむ目で言った。
「お守りは使わない。クロムは、たしかに死んだんだ。今さら生き返らせたりなんて、できない。ううん、したくない」