ボレロ - 第二楽章 -
部屋で待っていると言ったのに、私は約束の時刻に遅れ、珠貴をずいぶん待た
せてしまった。
遅れた、すまないと謝るつもりが、出迎えてくれた姿に笑みが浮かんだ。
私の笑みの意味をわかっていながら気づかぬ振りで 「お忙しそうね。お時間は
大丈夫?」 などと、さらっと言葉を添えるところなど憎いほど好ましい。
肩を軽く抱くと、襟元から控えめな香りが立ち上る。
ほとんど香水の類をただよわせることがないだけに、着物に移した香が普段で
はない装いであると告げていた。
昼食を狩野に頼んでいたが、並べられた料理はその辺のレストランのランチより
豪華で、ルームサービスの域を遥かに超えていた。
「狩野さんが、お年賀ですからとおっしゃって、こんなに」
「去年の正月も同じ台詞を聞いたな。そうだ、珠貴は白大島を着ていたね」
「えぇ、よく覚えているわ、あなたにお着物を褒めていただきましたから」
「今日のは……結城かな」
「正解。さすがね。夕方から出掛けることになっているの。
こちらは女性だけの会ですけど」
だから、去年のようなことはダメだと先に言われたようで、よく似合っている
よと言うことで誤魔化し、一抹の期待を振り切ってさっそくだけどと話を切り
出した。
「珠貴が彼女のことを、安心していいと断言する理由はなに」
「では、私から聞きます。
宗は今のお仕事をやめて、政治家になるつもりがあるの?」
「なんだよやぶから棒に。そんなわけないだろう」
「それが答えよ」
「どうして俺が政治家になるっていうんだ。
選挙区も持たずに立候補なんかできるか……って、そういうことか!
八木沢葵の婿になるってのは……いわれてみればそうだよ」
「もうひとつ聞いてもいい? 宗は妻が代議士になるのを望むかしら」
「バカなことを、珠貴が選挙に出るってのか? それこそ考えられない」
「ふふっ、私じゃないわよ。この場合は葵さんです。それならどお?
あなた、受け入れられる?」
「いや、それは……仕事に貴賎はないと思っているが、心情的にはNOだな」
「それならなおのこと、葵さんとのお話は成立しないでしょう?」
あっ、そういうことかと合点して、とんでもないことに気がついた。
「葵ちゃんが八木沢先生の跡を継ぐのか! まさか……」
「その可能性もあるということよ」
「珠貴、何を知ってる。君がそこまで言うんだ、確信があるんだろう?」
「八木沢先生、ご病気よ」
「なんだって、本当なのか!」
「残念ながら本当よ」
眉ひとつ動かさず、八木沢葵の現在の環境や八木沢代議士の病状を述べて
いく。
こういうときの珠貴は冴え冴えとして、感情を挟むことなく口だけが滑らかに
動き続ける。
その顔は、ゾクリとするほど美しかった。