R∃SOLUTION
ふと顔を上げて、日付が変わったことを確信した。
機械仕掛けの時計が大仰な音を立てる。これが壊れてしまったらどうするのだろう――と、青年リヒト・エーヴェルシュタインは思う。
この時間まで職場にいることは珍しくない。
魔力のある人間自体が少ないこの世界において、魔術の利用に長けた水術師として生を授かった彼だったが、それが人生において、とりわけ役立ったというわけではなかった。機械仕掛けの街において、魔術師は崇められることも、自由で奔放に生きることもかなわず、特別な魔術という存在は彼を平凡たらしめる要素の一部にしかなりえなかったのである。
何しろ、この世界では、魔術よりも有意な機械という存在が発達している。
彼の目の前にある大時計も、この世界を動かす機械の一部だ。
寸分の狂いもなく時間を告げるそれから、抑揚のないアナウンスが漏れ出した。
――すなわち、残業の終了である。ようやくかと息を吐いて、彼は手元の機材の電源を落とした。
幼い頃こそ、異世界の扉を開いて英雄になると息巻いていたリヒトも、今となってはしがない修理工場の平社員の一人だ。
十八で教養学校を卒業し、魔術に対する申し訳程度の知識を手に入れた彼は、いよいよこの世界における魔法という物の存在意義を疑った。
自分の中に宿った特別が生かされないとあれば、それが苛立ちに変わるのも仕方のない話である。歳をとるにつれて落ち着いた思考を手に入れた彼は、その苛立ちを諦観に変え、十五を過ぎるころにようやく自分は平凡であるということを自覚したのである。
しかし、その存在意義の分からない特別のおかげで、彼の就職がある程度円滑に進んだのも事実であった。
多量の魔力を必要とする修繕魔術と言われる回復魔法の一種を、彼は生まれながらにして扱えた。
彼が思うところの長ったらしい詠唱と大量の魔力が必要とはいえ、機械の力を借りることなく、あらゆる物質を修復することの出来るその魔術は、彼が現在勤める修理工場にとっては非常に有益だった。
同級生よりわずかに早く就職が決まったとはいえ、それが何か昇進に関係するでもなく、工学専門校を卒業した訳でもない彼の知識を買うような会社もない。
そもそも、修繕魔術を最大限に活かすなら、一生涯現場で働くしか道がないのだ。
そのような事情もあって、就職してから二回目の誕生日を残業中に迎えることとなった彼は、先の見える将来に退屈していた。
タイムカードを押して外に出る。会社が面した大通りは夜でも明るく、リヒトの赤茶色の髪を照らす。
太陽に匹敵するほどの光を放つビル街を通り抜け、家に向かいながら、彼はふと立ち止まった。
幼い頃、英雄を目指して家を抜け出して向かった場所がある。
法により進入が禁止されている区域だった。この灰色に囲まれた街ではもう見られない、彼の瞳の色と同じ、緑の光を浴びた日のことを、今になって鮮明に思い出したのである。
そのまま踵を返し、記憶が訴えるままに道をたどる。あのときには、朝に迷い込んでから、日が落ちるまで見つからなかった。
両親の通報があってその時間である。一人で足を踏み入れたなら、まず見つかるまい、というのが彼の見立てであった。
持っていた小ぶりの鞄に手を伸ばす。その中にある修理用のスパナを確認して、リヒトは安堵の息を吐いた。安全な場所とはいっても、何があるか分からないというのはどこでも変わりない。
駅のホームに入り込むと同時に、電車が到着した。せわしなく足を動かすスーツ姿の男女と共に乗り込んで、電光掲示板を見遣った。目的地までは三駅である。無機質なアナウンスと同時に足元が揺れた。
無人のまま、二十四時間駆動し続けている電車の利便性は、彼が幼い頃から変わっていない。終電なる言葉も昔はあったようだが、彼が生まれたときには、既にそんな概念は存在しなかったと両親は言っていた。
三つ下の妹に至っては、つい最近までその言葉を知らなかったらしく、先日終電について興奮気味にまくしたててくれた。
およそ十分で、目的の駅を告げる機械音が鳴り響く。なだれ込むようにホームへ降りていく人波に飲まれて、彼は軽くバランスを崩した。足元にご注意ください――と言われたところで、この状態では自分の足も見られない。
普段であれば舌打ちの一つもしたところであろうが、今はそんなことより、逸る気持ちを抑えつけておく方が大事だった。この場で走り出すのは危険すぎる。
駅の改札を抜け、人気のない方向へと走り出した。周囲の人々は一瞬だけ怪訝そうな顔を向けるも、声をかけるには至らない。歩く人間を軽々とかわしながら、彼は少なくなっていく住宅の光には目もくれず、オフィス街を走り去っていった。
機械仕掛けの時計が大仰な音を立てる。これが壊れてしまったらどうするのだろう――と、青年リヒト・エーヴェルシュタインは思う。
この時間まで職場にいることは珍しくない。
魔力のある人間自体が少ないこの世界において、魔術の利用に長けた水術師として生を授かった彼だったが、それが人生において、とりわけ役立ったというわけではなかった。機械仕掛けの街において、魔術師は崇められることも、自由で奔放に生きることもかなわず、特別な魔術という存在は彼を平凡たらしめる要素の一部にしかなりえなかったのである。
何しろ、この世界では、魔術よりも有意な機械という存在が発達している。
彼の目の前にある大時計も、この世界を動かす機械の一部だ。
寸分の狂いもなく時間を告げるそれから、抑揚のないアナウンスが漏れ出した。
――すなわち、残業の終了である。ようやくかと息を吐いて、彼は手元の機材の電源を落とした。
幼い頃こそ、異世界の扉を開いて英雄になると息巻いていたリヒトも、今となってはしがない修理工場の平社員の一人だ。
十八で教養学校を卒業し、魔術に対する申し訳程度の知識を手に入れた彼は、いよいよこの世界における魔法という物の存在意義を疑った。
自分の中に宿った特別が生かされないとあれば、それが苛立ちに変わるのも仕方のない話である。歳をとるにつれて落ち着いた思考を手に入れた彼は、その苛立ちを諦観に変え、十五を過ぎるころにようやく自分は平凡であるということを自覚したのである。
しかし、その存在意義の分からない特別のおかげで、彼の就職がある程度円滑に進んだのも事実であった。
多量の魔力を必要とする修繕魔術と言われる回復魔法の一種を、彼は生まれながらにして扱えた。
彼が思うところの長ったらしい詠唱と大量の魔力が必要とはいえ、機械の力を借りることなく、あらゆる物質を修復することの出来るその魔術は、彼が現在勤める修理工場にとっては非常に有益だった。
同級生よりわずかに早く就職が決まったとはいえ、それが何か昇進に関係するでもなく、工学専門校を卒業した訳でもない彼の知識を買うような会社もない。
そもそも、修繕魔術を最大限に活かすなら、一生涯現場で働くしか道がないのだ。
そのような事情もあって、就職してから二回目の誕生日を残業中に迎えることとなった彼は、先の見える将来に退屈していた。
タイムカードを押して外に出る。会社が面した大通りは夜でも明るく、リヒトの赤茶色の髪を照らす。
太陽に匹敵するほどの光を放つビル街を通り抜け、家に向かいながら、彼はふと立ち止まった。
幼い頃、英雄を目指して家を抜け出して向かった場所がある。
法により進入が禁止されている区域だった。この灰色に囲まれた街ではもう見られない、彼の瞳の色と同じ、緑の光を浴びた日のことを、今になって鮮明に思い出したのである。
そのまま踵を返し、記憶が訴えるままに道をたどる。あのときには、朝に迷い込んでから、日が落ちるまで見つからなかった。
両親の通報があってその時間である。一人で足を踏み入れたなら、まず見つかるまい、というのが彼の見立てであった。
持っていた小ぶりの鞄に手を伸ばす。その中にある修理用のスパナを確認して、リヒトは安堵の息を吐いた。安全な場所とはいっても、何があるか分からないというのはどこでも変わりない。
駅のホームに入り込むと同時に、電車が到着した。せわしなく足を動かすスーツ姿の男女と共に乗り込んで、電光掲示板を見遣った。目的地までは三駅である。無機質なアナウンスと同時に足元が揺れた。
無人のまま、二十四時間駆動し続けている電車の利便性は、彼が幼い頃から変わっていない。終電なる言葉も昔はあったようだが、彼が生まれたときには、既にそんな概念は存在しなかったと両親は言っていた。
三つ下の妹に至っては、つい最近までその言葉を知らなかったらしく、先日終電について興奮気味にまくしたててくれた。
およそ十分で、目的の駅を告げる機械音が鳴り響く。なだれ込むようにホームへ降りていく人波に飲まれて、彼は軽くバランスを崩した。足元にご注意ください――と言われたところで、この状態では自分の足も見られない。
普段であれば舌打ちの一つもしたところであろうが、今はそんなことより、逸る気持ちを抑えつけておく方が大事だった。この場で走り出すのは危険すぎる。
駅の改札を抜け、人気のない方向へと走り出した。周囲の人々は一瞬だけ怪訝そうな顔を向けるも、声をかけるには至らない。歩く人間を軽々とかわしながら、彼は少なくなっていく住宅の光には目もくれず、オフィス街を走り去っていった。