R∃SOLUTION
002.目を開けて異世界
小鳥のさえずりで目を覚ます。
しばしそのまま空を見上げていたリヒトは、数十秒の後に異変に気付いた。
空が青い。――既に日が昇っている。
色を失くして、彼は慌てて起き上がった。
視界が揺れる。頭部へのダメージはいまだ抜けきっていないようだった。だが、そんなことを気にしている余裕はない。
このままでは牢屋行きである。
幾ら先の見える生き方に不満を抱えていたとはいえ、囚人に立候補する気は更々ない。彼は一瞬で気を取り直すと、近くに転がっていた鞄を手に立ち上がった。
そこで、目の前に何もないことに気付く。
意識を失うつい数秒前まで、彼は視界に大樹を捉えていた。それがないということは、一体どういうことか――頭をよぎる考えを、即座に辻褄が合わないと切り捨てる。
もし彼が思う通りのことが起きていたとするなら、彼は伝説の域にある次元転移魔法を意図せずして使ったことになる。三十分以上にわたる詠唱と、伝説に登場する大魔術師でさえ御しきれないほどの莫大な魔力が必要なそれを、あの一瞬で、リヒトが使えたはずがないのだ。
しかし、他に納得のいく結論が出るわけもなく、彼は頭を抱えてしゃがみこんだ。
つまり――本当に異世界へ来てしまったのである。
「嘘だろマジで――ありえないっつう――!」
そう呟きながら泣き出したい気分に襲われた彼は、軽率な行動を心の底から恥じた。とはいうものの、昨夜の自分は、ただ大樹に触れ、やはり噂は嘘だったと笑って、幼い頃の未練を断ち切るために管理区域を訪れたのだ。まさかこんな事態になろうとは思ってもみなかった。
気を取り直して立ち上がる。こんなところで頭を抱えていても何の解決にもならないということはよく知っていた。緊急事態にこそ気をしっかり持て――という、教養学校での大嫌いな教師の言葉が、今更のように思い出された。
その覚悟が崩れたのは数秒後のことである。生臭い臭いと低い音に振り返った彼は、いつの間にか目の前にいた生き物に目を見張った。
黒い体毛に四本の脚、彼の知っているものの中で言うなら、犬に似ている。しかし、その獰猛な瞳は確かに狩猟者のそれで、手懐けられた愛くるしい目とは似ても似つかない。
冷や汗が伝うのを感じ取りながら、リヒトは記憶を漁り、そして気づく。
――狼だ。
図鑑の中でしか見たことのない肉食獣、人間でさえ容易に喰らう捕食者。
彼のいた世界には存在しない、危険な生物である。
とっさに鞄に手を伸ばす。果たして、スパナはそこにあった。取り出して獣と対峙し、肉体強化の詠唱を開始する。
それが終了した直後、彼の目の前に爪が迫った。
かろうじて避けきるも、かすった右頬が痛みを訴える。勢い余った狼の方は、彼の後方にあった木を深く切り裂いた。
堅い樹木であの傷である。人間であれば――そう想像して、彼は思わず頭を振った。
そんなことをしているうちにも、相手は彼を狙っている。
獣臭い唾液の匂いが眼前を埋め尽くす。
振り回したスパナに手ごたえはない。万事休すかと目を瞑った彼だったが、ふと、いつまで経っても最期が訪れないことにまぶたを持ち上げた。
「るっせえなあ。人が気持ちよく寝てるとこ、邪魔すんじゃねえよ」
苛立ちを含んだ、気だるげな声だった。彼の目に、針鼠を彷彿とさせる黒い髪が映った。
彼の胸にも満たない背丈の人間が、そこにいる。
狼の頭を鷲掴みにしている。
リヒトの救世主は、もがくそれを赤い瞳で睨みつけてから、後方へ放り投げた。
「青年、どうしたんだ? この辺はこういうの一杯いるんだから、外に出ちゃ駄目だろ」
咎めるような黄色い声を上げた人間は、少年のように見えた。
黒のタンクトップはぴったりと体に張り付いて、ショートパンツから伸びる足はしなやかな筋肉に覆われている。生意気さを感じさせる大きな赤い目がリヒトを見つめた。
ふと、少年は振り返った。起き上がった狼が彼を睨みつけている。面倒そうに目を細め、指の関節を鳴らすと、彼は強く地を蹴った。
――地面が抉れた。
拳が打ち付けられたと同時に、獣ごと地面が吹き飛んだのである。
軽々と着地した少年は、恐らく息絶えたであろう狼を一瞥すると、溜息を吐いてリヒトを見遣った。
「で、青年ってばどこのどいつ? 返答によっちゃぶっ壊さなきゃなんねえし、なるべくとっとと答えてくんね?」
僅かに声のトーンが落ちていた。
今すぐに逃げ出したい気分に襲われながら、リヒトは訥々と語りだす。
自分は機械の世界にいたこと、大樹に触れようとしたらここにいたこと、間もなく獣に襲われたこと――およそ信じられない話を、神妙な顔をして聞いていた少年は、彼が話し終えると同時に顔を輝かせて手を握ってきた。
「えー、と、どうした?」
「そっか、成程ね、あんただったのか! オーケー、探す手間が省けたぜ!」
何故か非常に喜ぶ少年を、リヒトは当惑しながら見詰める。質問をぶつける前に、彼は手を引かれてバランスを崩した。
「名前は? あんたの名前。教えろよ」
「リヒト・エーヴェルシュタインだけど。お前は? 命の恩人」
普段の調子を取り戻し、リヒトがそう笑うと、少年も快活な笑みを見せた。
命の恩人なんて照れるじゃねえかと言って、彼は誇らしげに声を上げたのである。
「あたしはフィルギア。フィルギア・ロート・アストレド。よろしく頼むぜ、リヒト青年!」
しばしそのまま空を見上げていたリヒトは、数十秒の後に異変に気付いた。
空が青い。――既に日が昇っている。
色を失くして、彼は慌てて起き上がった。
視界が揺れる。頭部へのダメージはいまだ抜けきっていないようだった。だが、そんなことを気にしている余裕はない。
このままでは牢屋行きである。
幾ら先の見える生き方に不満を抱えていたとはいえ、囚人に立候補する気は更々ない。彼は一瞬で気を取り直すと、近くに転がっていた鞄を手に立ち上がった。
そこで、目の前に何もないことに気付く。
意識を失うつい数秒前まで、彼は視界に大樹を捉えていた。それがないということは、一体どういうことか――頭をよぎる考えを、即座に辻褄が合わないと切り捨てる。
もし彼が思う通りのことが起きていたとするなら、彼は伝説の域にある次元転移魔法を意図せずして使ったことになる。三十分以上にわたる詠唱と、伝説に登場する大魔術師でさえ御しきれないほどの莫大な魔力が必要なそれを、あの一瞬で、リヒトが使えたはずがないのだ。
しかし、他に納得のいく結論が出るわけもなく、彼は頭を抱えてしゃがみこんだ。
つまり――本当に異世界へ来てしまったのである。
「嘘だろマジで――ありえないっつう――!」
そう呟きながら泣き出したい気分に襲われた彼は、軽率な行動を心の底から恥じた。とはいうものの、昨夜の自分は、ただ大樹に触れ、やはり噂は嘘だったと笑って、幼い頃の未練を断ち切るために管理区域を訪れたのだ。まさかこんな事態になろうとは思ってもみなかった。
気を取り直して立ち上がる。こんなところで頭を抱えていても何の解決にもならないということはよく知っていた。緊急事態にこそ気をしっかり持て――という、教養学校での大嫌いな教師の言葉が、今更のように思い出された。
その覚悟が崩れたのは数秒後のことである。生臭い臭いと低い音に振り返った彼は、いつの間にか目の前にいた生き物に目を見張った。
黒い体毛に四本の脚、彼の知っているものの中で言うなら、犬に似ている。しかし、その獰猛な瞳は確かに狩猟者のそれで、手懐けられた愛くるしい目とは似ても似つかない。
冷や汗が伝うのを感じ取りながら、リヒトは記憶を漁り、そして気づく。
――狼だ。
図鑑の中でしか見たことのない肉食獣、人間でさえ容易に喰らう捕食者。
彼のいた世界には存在しない、危険な生物である。
とっさに鞄に手を伸ばす。果たして、スパナはそこにあった。取り出して獣と対峙し、肉体強化の詠唱を開始する。
それが終了した直後、彼の目の前に爪が迫った。
かろうじて避けきるも、かすった右頬が痛みを訴える。勢い余った狼の方は、彼の後方にあった木を深く切り裂いた。
堅い樹木であの傷である。人間であれば――そう想像して、彼は思わず頭を振った。
そんなことをしているうちにも、相手は彼を狙っている。
獣臭い唾液の匂いが眼前を埋め尽くす。
振り回したスパナに手ごたえはない。万事休すかと目を瞑った彼だったが、ふと、いつまで経っても最期が訪れないことにまぶたを持ち上げた。
「るっせえなあ。人が気持ちよく寝てるとこ、邪魔すんじゃねえよ」
苛立ちを含んだ、気だるげな声だった。彼の目に、針鼠を彷彿とさせる黒い髪が映った。
彼の胸にも満たない背丈の人間が、そこにいる。
狼の頭を鷲掴みにしている。
リヒトの救世主は、もがくそれを赤い瞳で睨みつけてから、後方へ放り投げた。
「青年、どうしたんだ? この辺はこういうの一杯いるんだから、外に出ちゃ駄目だろ」
咎めるような黄色い声を上げた人間は、少年のように見えた。
黒のタンクトップはぴったりと体に張り付いて、ショートパンツから伸びる足はしなやかな筋肉に覆われている。生意気さを感じさせる大きな赤い目がリヒトを見つめた。
ふと、少年は振り返った。起き上がった狼が彼を睨みつけている。面倒そうに目を細め、指の関節を鳴らすと、彼は強く地を蹴った。
――地面が抉れた。
拳が打ち付けられたと同時に、獣ごと地面が吹き飛んだのである。
軽々と着地した少年は、恐らく息絶えたであろう狼を一瞥すると、溜息を吐いてリヒトを見遣った。
「で、青年ってばどこのどいつ? 返答によっちゃぶっ壊さなきゃなんねえし、なるべくとっとと答えてくんね?」
僅かに声のトーンが落ちていた。
今すぐに逃げ出したい気分に襲われながら、リヒトは訥々と語りだす。
自分は機械の世界にいたこと、大樹に触れようとしたらここにいたこと、間もなく獣に襲われたこと――およそ信じられない話を、神妙な顔をして聞いていた少年は、彼が話し終えると同時に顔を輝かせて手を握ってきた。
「えー、と、どうした?」
「そっか、成程ね、あんただったのか! オーケー、探す手間が省けたぜ!」
何故か非常に喜ぶ少年を、リヒトは当惑しながら見詰める。質問をぶつける前に、彼は手を引かれてバランスを崩した。
「名前は? あんたの名前。教えろよ」
「リヒト・エーヴェルシュタインだけど。お前は? 命の恩人」
普段の調子を取り戻し、リヒトがそう笑うと、少年も快活な笑みを見せた。
命の恩人なんて照れるじゃねえかと言って、彼は誇らしげに声を上げたのである。
「あたしはフィルギア。フィルギア・ロート・アストレド。よろしく頼むぜ、リヒト青年!」