真夜中に口笛が聞こえる
◇第三章 住人
 さっきまで機嫌良く庭をいじっていた男は何処へ行ってしまったのであろうか。

 あの口笛も聞こえない。

「あっ」

 美佳が声を上げた。目線の先には、黒っぽい大人のネコがいた。何やら、蕾の付いた茎をくわえている。
 トラ模様とまだら模様の混合で、鳴き声一つ上げず、すぐに飛び跳ねて何処かへ行ってしまった。


「信ちゃん。門の呼び鈴をならそうよ」

 つる草で覆われた門をよく見ると、確かに呼び鈴が付いていた。
 植物の葉を横へ避けると、茶色に汚れた表札が出てきた。

 白河、と書かれている。

「白河さんね」
 美咲が言った。

「そうみたいだね」

「押すわよ」
 表札の下の白いボタンを押す。

 ジー。

 懐かしい音だった。信一郎が若い頃に住んでいたアパートが、それだった。
 最近は全く遭遇しない。ブザーという響きは、誰も気付かぬうちに、消えてなくなってしまう運命なのだろう、などと信一郎は思った。

 ジ、ジジー。

 信一郎がひとりあれこれ考えていると、もう一度ブザーを美咲が鳴らす。人を食ったようなぶつ切れのノイズが鳴る。

「はい」

 玄関が開き、男の声がした。

 あの男であった。
 最初に見た時と同じ服装をしていた。

 青白い肌に、シワが目立つ。

「今度、公園向かいに引っ越してきた高崎です。ご挨拶に参りました」

「それはご丁寧に」

 門のツガイを開けた男は、明らかに警戒している様子だった。

「失礼します」

 信一郎、美咲、美佳の順に、門を通過する。

 敷地に入って初めて判ったことだが、足の踏み場に困るほど、植物が植えられ、鬱蒼としていた。

「これ、つまらないものなんですが……」

 信一郎は異様な空間に対し、笑顔を崩さず、手で妻に合図を送った。

「どうぞ」
 合図に反応して妻が渡そうとすると、男は急いで土のついた軍手を脱ぎ、受け取った。

「どうも、すみませんねぇ。さっきまで、土いじりしていたもので」

 男はそこで、へらへらと笑った。
< 20 / 96 >

この作品をシェア

pagetop