ピエモンテの風に抱かれて
悲しい笑顔
イタリア側から見るアルプス山脈の頂きに、朝一番の光が降り注ぐ。そこから吹く乾燥した風は湖で跳ね返ると湿気を帯び、葡萄に恵みの潤いをもたらしながら畑の道を抜けていく。
ガタガタという窓枠を鳴らした風の音で、先に目を覚ましたのは樹里だった。
「リュウ、風邪ひく… 」
隣でまだ眠っている龍を見つめてつぶやいた。タオルケットを肩にかけようとすると、大きな枕に埋もれている美しい亜麻色の髪に目を引かれた。
− こんなに綺麗な髪なのに… −
髪型なんて気にしたこともない。挙げ句の果てに寝癖をつけたままの外出なんてしょっちゅうだ。
龍のような人は稀だと思う。舞台を創り上げることには誰よりも積極的で、決して手を抜くことはない。
その反面、普段の生活は何もかもが無頓着で大雑把だ。舞台の上にいる彼からは想像もつかない性格に、誰もが驚くのだ。
− いつも忘れ物ばかりして −
− いつも同じ服ばかり着て… −
カーテンの隙間から差し込んだ朝日に彼の髪が照らされると、その亜麻色は淡い緑色にも見える。何と表現してよいか分からない不思議な髪にそっと触れてみると、押し殺した感情が溢れでてきた。
− 昔は本当のお兄ちゃんみたいに思っていたのに… −
数えきれない思い出が走馬灯のように巡りはじめる。お互いイタリア人と日本人のハーフであり、偶然にも同じ環境で育った二人。
喜びも怒りも悲しみも、ずっと共有する内に自然に芽生えた恋心だった。
しかし現実は、容赦なく樹里を襲う。彼は選ばれし者であり、人にはない才能をいつまでも同じところに留めておくべきでないと、改めて気づかされるのだ。
「ん…」
龍の体がピクリと動くと、樹里は急いで熱くなった自分の目頭を押さえた。
「おはよう、リュウ。あのね…」
少し上擦った声で、右薬指を見せた。
「指輪は大事にするから、リュウも東京で頑張ってね」
筋肉がほどよくついた逞しい上半身をゆっくりと起こした龍の表情は硬いままだ。そして思い詰めたように口を開いた。
「考えたんだ。俺さ…、俺だけでもイタリアに残れないかなって。まだまだ勉強することもあるし」
恋人を残していくことを考えての決断だろうが、樹里は首を横に振った。
「そう言ってくれるだけでも嬉しい。でもね、リュウ? 二人でいる時は日本語で話そうって決めたのは、いつだったか覚える?」
「そんなの決めてないよ。気づいた時にはそうしてただろ?」
「その通りよ。それが当たり前に育ってきた。それだけ日本は私たちにとってかけがえのない国。
昔、リュウが七夕さまを歌ってくれた時には、日本でミュージカルスターになるって決めていたんでしょう?
私には分からない難しい音楽用語を日本語で覚えたのだって、そのためなのよね?」
「ジュリ…?」
「それに日本はあらゆる面で世界から注目されてるじゃない。そこで成功するのはリュウにとって大事なことだと思うな」
断腸の想いで取るべき道を示すと、龍はわずかにうなずいた。
「…やっぱり俺のことを一番分かってくれるのはジュリなんだな。俺が本当に何をしたいのか…分かっ…てくれて…いる」
樹里は彼の手をギュッと握りしめた。
「そう。舞台で言ってたわよね。世界を制覇したような気分になるって。イタリアを出て、それを現実にしていくの」
「そうだな、絶対に大物にならいと。そうすれば…」
伏し目がちに下を向いていた龍の視線が、やっと樹里と重なった。未来への野心を宿したその瞳には、もう少年ぽさは残っていない。
「待っていてくれるか?」
樹里は精一杯の笑顔を作って言った。
「オーディションにはイケてる服装で行かなきゃダメよ!」
しかし、心の底から愛し合っていても引き裂かれてしまった七夕伝説が頭をよぎると…
彼女の中の明るさが少しずつ消えていった。
少しずつ、
少しずつ……。
樹里が18歳、龍が19歳の時の出来事だった。
この時から、彼女は悲しい笑顔をするようになった。