ピエモンテの風に抱かれて
真後から聞こえてきた、妙に響く低い声にドキッとする。恐る恐る振り返ると、192cmもある長身のサーシャに見下ろされていた。
『ご、ごめんなさい。時間が出来たからつい。でも最初は何て言ったんですか? シト…?』
『シトティジェーラシ?』
ぶっきらぼうに繰り返される謎の言葉。樹里は一瞬、しまった、と思いながらも小声で確かめた。
『ロシア語です…よ、ね?』
彼は人を小馬鹿にするようにフンと鼻で笑う。
『これくらい覚えろよな。ロシアからの客だって増えてんだぞ。何してんだ? って聞いたんだ』
『そうですか…。すみませんでした』
素直に謝った樹里に仕方ねえな、という表情になったサーシャは彼女の耳元に顔を近づけてささやいた。
『まあいいさ、俺だってリュウの情報知りたいから訳してくれよ。ホームページのイタリア語バージョンはどこにいったんだ?』
『途中でなくなりましたよね。イタリアの人たちにもリュウの活躍を知ってほしいのに』
サーシャは1歳上の先輩だ。ロシア語が得意で主にロシア人観光客の担当をしている。
龍とはハイスクール時代の同級生であり、なおかつ親友だった。樹里の職場では、龍の話が出来る唯一の同僚である。
『あ、2枚目のCDが出るみたいですよ! 今度も自作のイタリア語の曲が入っ……、あ、あれ?』
『どうした?』
『イタリア語じゃなくて英語みたいです。一枚目は3曲もあったのに』
『ふーん、英語ねえ。どんどんイタリアから遠ざかってる気がするのは俺だけか?』
『リュウは英語も喋れてトリリンガルを売りにしてるから、仕方ないのかも』
『…ったく、誰にも連絡よこさねえし。大スター様になると昔のことなんて忘れるのかもな』
『リュウはそんな人じゃ…』
『人ってのは変わるんだ。チヤホヤされればされるほどな。俺はスポーツの世界で、そういうヤツを何人もみてきた』
やけに説得力のある言い方にギクッとしてしまう。ちゃんとした彼なりの裏付けがあるからだ。
『スポーツって、バスケットのことですよね』
『ま、リュウがそんなヤツとは思いたくないけどな』
樹里の問い掛けを軽くスルーしたサーシャは、ポーカーフェイスで話を変えた。
『それにしても、あの舞台オタクが映画やドラマにも出て、モデルまでやるなんて。服装なんて全然気にしなかったヤツが』
そう言いながら樹里の右手をどかすようにして、筋張った長い指でマウスを奪った。
画面には龍が出演したガールズ向けのファッションショーの小さな写真が並んでいる。
その内の一つをクリックして画像をパッと大きくさせた彼は唇を尖らせて、ヒュウっと口笛を鳴らした。