ピエモンテの風に抱かれて

『じゃあ校舎を案内するよ。ジュリ、おいで』



サーシャは無表情のまま両手をポケットに突っ込んでいる。三人で歩きだそうとしたところで、龍が慌てて叫んだ。



『あ、教室に携帯忘れた! ここで待ってて。すぐに戻るから』



「リュウ、待って。シャツにトマトソースがついてるわよ」



ウェットティッシュを取り出して汚れを拭き取ると彼は感心したように



「いつも便利なもの持ってんだねー、ありがと!」


と、日本語で言いながら走っていった。



『リュウったら、いつもこんな調子なんだから。子供みたいよね』



樹里はクスクスと笑うと、サーシャがボソッとつぶやいた。




『ザボートリバヤ ジェナ(世話女房なんだな)』



『えっ、なに?』



『何でもないよ。リュウとは日本語で話すのか?』



明らかにイタリア語ではなかった呪文のような言葉。気にはなったが、初めて彼の方から話しかけられた喜びの方が大きかった。



『そうよ。私は父さんとはイタリア語、母さんとは日本語で話して育ったの。だから母さんと同じ言葉で話せるリュウが珍しくて、凄く嬉しかったのよ。それがずっーと続いてるの!』



『ふーん。で、君は将来何になりたいんだ?』



『将来?』



『決めてないのか?』



人を品定めするかのように、足元から頭のてっぺんまで凝視される。その冷ややかな視線に背筋がぞくりとした。

しかも初めて会う人に突然そんなことを聞かれても困ってしまう。咄嗟に思いついたことを答えるしかなかった。



『私はずっとリュウのサポートがしたいと思ってる。彼の夢が叶う為なら、何でもしてあげたいなあって』



サーシャは眉間にシワを寄せた。



『何だよ、それ』



『だ、だから…、それがやりたいことなんだけど。私はリュウと違って、何をやってもダメだったから』



そう。樹里自身、何度も龍と同じ道を志したものだった。しかし踊りも演技も、歌や楽器でさえも自分には才能がないことに気づくと、彼を支えていくことが自分の使命なのだと感じていたのだ。



『わかった。もういいよ』



サーシャに冷たくあしらわれると、龍が歌を口ずさみながら軽い足取りで戻ってきた。



『おっ? なに二人して仲良く喋ってんだ?』

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