ピエモンテの風に抱かれて
龍はどんな時でも、
遊びで女性と付き合えるような人ではなかった。稽古というのが偽りだとすると、結論は恋人同士。それしかないだろう。
「…やっぱりリュウは私のことなんて忘れてしまったのかも。電話なんてしたって無駄なんじゃ……」
行き場のない募る想いが樹里を襲う。頭を抱えてうなだれるようにベッドに深く腰かけた。そんな彼女の心中を察した飛鳥はわざと明るい声で言った。
「でも左手を使ったのなんて偶然かも知れないじゃない! だからジュリは絶対にリュウに電話しなきゃダメよ? これをあげておくから」
「え…?」
手早くノートパソコンを立ち上げると何かを印刷しはじめた。画面には龍の公式HPが映っている。
「電話するタイミングを考えると、リュウの予定を知っておく必要があるでしょ?」
ほら、と言って頭の上にヒラリと置かれた紙にはミュージカルの日程、生出演するテレビ番組、映画の舞台挨拶、ラジオの公開収録、CDの発売記念イベント、ファッションショーなど、あくまでも公にされている予定が綴られていた。
「まっ、こんなのは一部だろうけど。分かる範囲で知っておいて損はないと思うわ」
樹里を元気づけるようにニッコリと微笑む。飛鳥の優しさが身に染みる。気を取り直し、目の前のビッシリと並んだスケジュールに目を見張らせた。
「分かるだけでもこんなにたくさんあるんですか? ドラマや映画の撮影もあるはずなのに。リュウがこんなに仕事をこなしているなんて…」
飛鳥は何かを思い出したかのようにピンッと指を鳴らした。
「そうそう、ダンナが言ってた。このハンパない仕事の量もプロダクションのせいだって」
「なんですか? それ」
「彼が所属している芸能プロダクションって、家族で経営していて規模も小さくて、社長自らタレントのマネージャーまでしてるんですって。他に売れっ子もいないし、とにかくリュウの稼ぎに頼ってるって噂よ」
「リュウはそんなところにいたんですか? そんな、彼の体が心配……」
そこまで言いかけると再び焦りが生じた。
「それに、こんなに忙しいなら連絡なんてつかないんじゃ…」
「それもそうね。ジュリ自身も忙しいだろうから、タイミングが合うといいわね」
飛鳥はカーテンを開けるとベランダの戸を横に滑らせた。すると潮騒と共に湿り気のある生暖かい風が舞い込んできた。
「天気予報では明日は雨みたいよ。覚悟しなきゃ…」
樹里も印刷されたスケジュールを見ながらベランダに出てみた。ピエモンテのアルプスから吹く風とは全く違う、ネットリとした潮風に身体を包み込まれると、
今までで一番大きな、
ヒユュューーという音がして、紙が飛ばされてしまった。
「あっ!」
「大丈夫よ。またプリントするから」
三階のベランダから白い紙がゆっくりと落ちていく。
草木がうっそうと茂った闇の中に吸い込まれるように −。
− リュウ、あんなに洗練されて大人っぽくなって… −
− 本当は彼女と…? −
ベランダの手すりを掴む手が僅かに震える。
樹里は不吉な予感がしてならなかった。