ピエモンテの風に抱かれて
ホッとした顔になった龍が足早に樹里の元に駆け寄っていった。



「来てくれたんだね。助かった! あの二人に捕まると大変だから、早く逃げよう」



『ちょっと、なに話してるのよ!? 日本語禁止!』



『いやだなあ。先生は相変わらずお美しいって話ですよ。あっ、次は劇の稽古だから失礼しまーす』



龍が樹里の手を引って猛ダッシュする。遠くから、待ちなさーい、という声が聞こえた。



迷路のように入り組んだ劇場内の廊下を走りぬける。シーンと静まり返った薄暗い舞台の袖に逃げ込むと、息を切らせた樹里は心配そうに龍を見上げた。



「リュウったら…、また先生に言い寄られてたんでしょう? いいの? あんな美人を無視して」



「まあね、スカウトされるなんて贅沢な話だよな。でも俺が将来何になりたいかはジュリだって分かってるだろ。
バレエもオペラもその勉強に過ぎないのさ」



「違う。そんなじゃなくて」



「ん?」



「だから、その…」



樹里が一番気にしているのことに、彼はあっけらかんと答えた。



「ああ、なるほどね。うん。さっきもキスされそうになったよ」



「キス…!?やっぱり!」



「でも彼が歌いながら入ってきたからセーフだった」



「え? そうじゃなかったら、どうなっていたの?」



「さあね? どうなっていたと思う?」



「そ、そんなこと言われても…」



質問に質問を返して、少し意地悪そうに微笑んだ龍は樹里の顎をクイッとあげると −、



唇に優しくキスを落とした。



「アハハ、ジュリをからかうと本当に面白いなあ。大丈夫、俺がキスしたい相手は目の前にしかいないよ」


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