ピエモンテの風に抱かれて
忘れ物を無事に受け取った樹里は、その場で立ちすくんだまま手の中にある携帯をジッと見つめていた。しかし時間が押しているのに気づくと諦めざるを得なく、仕方なく元来た道を引き返した。電車の中ではさっきの出来事が頭をグルグルと巡り続けていた。
− まさか、まさか本当に例の彼女だったらどうしよう… −
悶々としながら頭を抱えるようにしていると、2つ目の駅で大勢の人が乗り込んできた。チェックのミニスカートをはき、高めの声でキャッキャッとはしゃぐ女子高生の集団が目につく。
ヨーロッパに広がる日本ブームはとどまるところを知らない。彼女たちが着ているこの可愛い制服も、イタリアで大流行しているのだった。
少し離れたところにいる彼女たちに目を細めていると、思わぬ光景に遭遇してしまった。
そのうちの一人が、周りの目を全く気にせず化粧直しを始めたのだ。せっせとファンデーションを塗り直し、一生懸命口紅をつける。エクステをつけ直すと丁寧に髪をとかしはじめた。大きな手鏡を片手に。
樹里は目を見開いて凝視してしまった。この暑さで崩れたであろうメイクは、みるみるうちに完璧なものとなり、その手際のよさに思わず拍手を送ろうと……、
いやいや、冗談を言っている場合ではない。人前でするこの行為は、まず欧米ではありえない。明らかに男性を誘っているもの。いわゆる娼婦のものとされているのだから。
それでなくとも化粧とは人目に触れず、つつましやかにするものではないのだろうか?
ズッ、ズズズッ−。
次に聞こえてきた音にハッとする。目の前にいる中学生くらいの男の子が鼻水をすするものだった。
欧米人にとって、これほど不快な音はない。鼻はかむ時に大きな音を出しても問題ないが、すするのはご法度とされている。
次の駅に着くまでの僅かな時間でさえ、その不快さに堪えられなくなり、ティッシュを取り出して渡そうとした手が止まった。
ここは日本。イタリアとは違うのだと自覚させられた瞬間だった。テクノロジーが発達した先進国であり、何もかもが細かくて親切な日本のお国柄は素晴らしいと思う。しかしヨーロッパとの習慣の違いを直接肌で感じると、急に龍のことが心配になってきた。
− リュウはこんな中で、うまくやってるの? −
樹里はしばし、電車の中で考えこんでしまった。