ピエモンテの風に抱かれて
かつてない重苦しい空気がどんよりと漂う。がっくりと肩を落とす樹里を目の前にすると、飛鳥はオロオロしながらも元気に振る舞うしかなかった。
「ねえ、そんなに落ち込まないで。まだ方法はあるわ。ほら、リュウのHPにあるブログに、コメントをイタリア語で書き込んでみるとか? 目立つからすぐに気づいてくれるかも!
……そうだわ、明日プロダクションに電話してみるのはどうかしら? 代表番号だとファンだと思われるからダメね。ダンナに頼んで裏番号を調べてもらう。そうすればリュウと連絡取れるわよ、きっと!」
ありとあらゆる手段で励まそうとする彼女に、樹里は悲しい笑顔で答えた。
「アスカ先輩、もういいです」
「もういい? いいって、何がよ?」
飛鳥に背中を向けると、ベランダの戸をそっと開けた。
露天風呂の湯気が、箱根の夜空に吸い込まれていく。織姫と彦星、天の川に挟まれたヴェガとアルタイルを眺めようとしたが、うっすらと広がる雲に阻まれ、星の片鱗すら見つけることができない。
「諦めます。今回はもう」
「え…、ジュリ? な、何を言って……」
「そもそも仕事で来てるのに、恋愛を持ち込むなんてよくなかったんです」
「そんな! ジュリはちゃんと仕事をしてるわ。本当に真面目に、ビックリするくらいよ」
「いえ、心の中はリュウのことでいっぱいなんです。いつミスしてもおかしくありません。気持ちを切り替えます」
「もう! ジュリったらぁ〜〜!!」
納得のいかない飛鳥が地団駄を踏むが、樹里はかたくなに空を見続けた。
箱根の星空は、ピエモンテに負けないくらい美しいだろう。目に焼き付けておきたかった −。
できれば…、
龍と肩を並べて…。
雲間から、一瞬でもきらめく星を期待したが、雲は厚さを増すばかりだ。夏の夜の、ゾクッとする冷気が、樹里の肩を撫でる。
森の中、ひそやかにこだましていたミミズクの鳴き声もいつしか止み、不気味なほどの静けさが襲ってきた。
− ずっと勇気を出せなかった自分がいけないんだから… −
その静寂は容赦なく、冷ややかに、彼女の心を包んでゆくのだった −。