ピエモンテの風に抱かれて
− 暑っ…… −
ジリジリと照り付ける真夏の午後の太陽。気温34度、湿度83%。
途中のサービスエリアでトイレ休憩をする度に、明らかに高くなっていく気温と湿度。富士山を背にしてバスが進むのは世界でも有数の大都市、イタリアから見れば東の果てにある未知なる国の首都。ついに旅のメインが目の前にやってきた。
『東京都内の人口は約1300万人。イタリアの首都ローマと比べると、1000万人も多いことになりまして………』
飛鳥の説明を聞きながら外の景色を物珍しそうにカメラを構えるツアー客。高速道路脇に増えていくのは民家、マンション、巨大ショッピングモール。
そして遥か彼方にうっすらと見える超高層ビル群とスカイツリー。
バスの中での樹里の出番はあまりない。しかし再び添乗員として日本を訪れることを考えると、ひたすら飛鳥のガイドに耳を傾けて筆を走らせていた。すると…
「ジュリは2年振りの東京よね? どんな感じ?」
不意に飛鳥の声が聞こえると、正直たかが2年、されど2年、という言葉をつくづく感じていた。まずは建物の数が増えていることに驚いてしまう。何よりもショッキングだったのは…、
「スカイツリーがあんなに高くなるなんてビックリです! 前に見た時はあの半分くらいの高さだったのに」
「そう? 私は毎日見てるから気にならなかったけど、そういうものなのね」
バスが首都高速に入ると、樹里は別なことにも気づいて窓の外を指さした。
「あれ…? あそこには確か30階くらいのホテルがありませんでしたっけ?」
「閉館したあの有名なホテルのことね。まだちゃんとあるわよ。背が低くなってるだけで、ほら」
「え? ……あっーー!」
ビルの内側から柱を撤去していく。粉塵を散らさない、騒音対策などが施されている最新式のビルの解体工事に思わず目を見張る。世界各地でも導入されているが、実は日本の建設会社が考案した世界に誇る技術だ。
『皆さーん。この写真をあのビルと見比べて下さい!』
すぐさま昔のガイドブックをめくった樹里は、建物の以前の写真をお客さんに見せて廻りはじめた。
『え、あれが? 10階くらいしかないじゃない。あんなに可愛くなっちゃって!』
『解体工事はテレビで観たことはあるが、実際に見るのは初めてだよ。すごいなあ』
樹里がお客さんと談話をしている中で、飛鳥は喋り疲れた喉を潤すようにペットボトルの水を一気に飲み干していた。
それを見た樹里はハッとして思わず彼女に言い寄った。
「もし良かったら私にガイドさせてくれませんか!? これでも日本のことは勉強してるんですよ。アスカ先輩、ずっーと喋り放しじゃないですか。少しは休んで下さい」
ペットボトルをカップホルダーに置いた飛鳥はビックリしたように目を見開くと、一呼吸おいてからやっと口を開いた。
「そう? じゃあ任せようかな。間違ったところは直ぐに指摘するわよ? いいわね」
「はい! ビシビシお願いします」
飛鳥が樹里にマイクを渡すと、バスはちょうど渋谷駅前のスクランブル交差点に差し掛かっていた。少し緊張しながらも、ここぞとばかりに声を張り上げた。
『ここを訪れてみたかった方も多いのではないでしょうか。世界的にも有名な渋谷のスクランブル交差点です。一回の青信号で、多い時は3000人もの人が渡ります』
信号待ちの車内で、シャッター音が一斉に響く。
『本当にすごい人ですよね。あっ、あの赤い服を着た女性ですが、スマフォを操作しながら歩いてますよね。よく人にぶつからないと思います!』
バスの中が笑いに包まれるが、飛鳥だけは樹里に真っすぐ視線を送っていた。そしてお客さんには聞こえないように小声で注意する。
「笑いを取るために赤い服の女性を特定するのは良くなかったかな。スマフォを見ながら歩いていたのは他にもいるでしょ?」
ビシビシお願いします、と言った手前、落ち込むわけにはいかない。それでも微妙に表情を固くしてしまった樹里を見ると飛鳥はフッと笑みを作った。
「なーんてね。私も昔、同じようなことを言って先輩に注意されたの」
トリノ時代から知っている完璧な飛鳥かと思いきや、そんな彼女の告白に樹里は目を丸くする。
「アスカ先輩もそんなことがあったんですか…?」
「いやねえ、当たり前じゃない。最初から何でも出来る人なんていないわよ」
その優しい言葉にグッときた樹里は少し涙目になってしまった−。