トイレキッス


何もない空間にむかって、仁さんは緊張した面持ちで頭をさげた。


しかし洋平には、その何もない空間に美しい女性の姿が見えるような気がした。


「おはようございます。あの、ぼくは、え?あ、はい、そうです。駅前の高校の生徒です。一年生です、はい。えっと、よくここですれちがいますよね。散歩ですか?え?橋の上から見える町の風景が好き?あ、そうなんですか。それで毎朝、ここに来てるんですね。ああ、確かにここからだと、朝日に照らされた建物が、なんだかきれいに見えますね。何度も通っているのに、ぜんぜん気がつかなかった。え?ぼくの名前ですか?ぼくは」


そういった台詞まわしで、仁さんは少年と女性の会話を表現した。


その後、少年と女性は毎朝橋の上で話をするようになる。学校のこと、仕事のこと、好きな音楽のこと、好きな本のことなど、いろんなことを楽しく語りあう。少年の想いはふつふつと大きくなってゆく。そんな日々が、一ヶ月程つづく。


そして少年は、女性に恋文を渡すことをついに決意する。


恋文の封筒をポケットにおさめて、仁さんは女性を待つ少年を演じた。


落ち着きのない足取りでその場を歩きまわり、何回も腕時計に目を落とす。時々まわりを見渡す。


中学生だった頃、告白のために女の子が来るのを待っていた自分も、あんなふうだったことを思い出して、洋平はなごやかな気分になった。


はっとした表情になって、仁さんは顔をあげた。そしてポケットに手をそえた。女性がやってきたのだ。


洋平は、つい拳をにぎってしまった。


仁さんは、頬を紅潮させながら封筒をとりだした。


「おはようございます。あの、これ」


急に仁さんは言葉につまった。


そのまま数秒沈黙する。


「え?」


表情が一転して暗くなる。


「引っ越す?」


封筒が、手からすべり落ちた。


「イタリア?イタリアに引っ越すんですか。いつ?」


声がうわずっている。


「明日?それで、今日、ぼくにお別れを言いに?」


仁さんはしばらくの間ぼうぜんとしていたが、突然、え?と声をあげて足元を見た。


そこには、封筒が落ちている。


「あ、これは」


あわてて拾い、くしゃくしゃにしながらポケットにつっこんだ。


「これは、その、何でもないんです。はい、何でもないんです。何でもないんです」


さみしそうに笑いながら、くりかえした。


「何でも、ないんです」


そこで照明がゆっくりと消えて、仁さんの姿は闇に溶けていった。




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