トイレキッス


廊下の奥で立ち止まると、父親はふところから、小冊子をとりだして、洋平にさしだした。


それはエロ本だった。


洋平がけげんな顔をすると、父親は低い声でつぶやいた。


「それ、君の本やろ?」


「え?」


言われてみると、確かにそのエロ本は洋平のものだった。冬休み前に、三田村に貸したものだ。


「順次のバッグの中にはいっとったんよ。今日、君に返すつもりやったんやと」


父親は三田村の死ぬ前の様子を語りはじめた。


三田村の両親が病院に着いた頃、彼等の息子はストレッチャーにのせられて、手術室へ向かうところだった。
三田村の姿を見て、父親は絶句した。母親は足に力がはいらなくなり、その場にひざをついて、そのまま立てなくなった。
三田村は両親の姿を目にすると、歯を喰いしばりながら、笑顔で苦しそうに言った。


「大丈夫、大丈夫。あ、そうだ。親父、おれのバッグん中に、麻見に借りたエロ本がはいってるんよ。おれ、ちょっくら入院することになりそうやけん、代わりに返しとってくれや。バッグはたぶん仁さんが持ってるけん。ああ、大丈夫やけんな。大丈夫」


かすれた声で大丈夫とくりかえしながら、三田村は手術室に運ばれていった。そして、二度ともどってこなくなった。
三田村は、あえてエロ本という、まぬけなものの話をすることで、両親のショックをゆるめようとしたのだ。自分は血まみれなのに、死ぬ寸前だったのに。


語り終えると、父親は泣き叫ぶ母親を指さした。


「あいつ、声でかいやろ。習いごとで、合唱やっとるんよ」


洋平は何も言えなかった。父親は、水っぽい声になってつづけた。


「おれも泣きたいんやけどな。そのエロ本見てると、なかなか泣けんのよ。なんか泣いてしまうと、順次の気遣いを無駄にしてしまうような気がしてな。それで、それを、さっさと君に、返して、思いきり、泣こうと、思て」


それで洋平をこんな夜中に呼び出したわけだ。


父親は目元を手でおおった。
洋平はそれから視線をそらし、手に持ったエロ本をじっと見つめた。
そのとき、階段のほうから、誰かの走る音が聞こえてきた。
ふりかえると、治療室に向かって廊下を走る淵上の姿が目にはいった。
ああ、仁さんが呼んだんやな、と洋平は思った。
淵上は、治療室の前で、仁さんと何かを話した。仁さんは首を横にふった。


そして洋平は、無表情じゃない淵上の顔を、初めて見ることになった。


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