トイレキッス
やがて仁さんがやってきて、部活がはじまった。
あの日病院にいた仁さんまでが明るい顔をしているのを見て、なんだか裏切られたような気持ちになった。
部員達を静めてから、仁さんは話しはじめた。
「これからの活動なんやけど、とりあえず『極道の就職』のことはみんな忘れてくれ。あれは三田村以外のやつが主役をやっても、つまらんなる芝居やけん、やめることにする。それで、ちがう芝居の台本を、淵上に書いてもらおうかと思とんのやけど」
部員達はソファに注目した。
いつもはそこに寝転んでいるはずの淵上が、今日は来ていなかった。
「まあ、おれが電話して、そのことを伝えとくわ。とりあえず、今日は普通の練習をしよ。じゃ、みんな、屋上に行くで」
そのとき、突然ドアが開いて、髪の乱れた女生徒がはいってきた。
ドアの近くにいた男子部員が、おどろきの声をあげた。
その女生徒は、すうっと部室の中にはいってきた。
「淵上さん?」
藤沢が、ぼうぜんとつぶやいた。
その女生徒が淵上だと気付くのに、洋平は数秒かかった。
それくらい、淵上の容姿は変わっていた。
髪にはたくさんの寝癖があり、白髪が数本まじっていた。肌はひどく乾いていて、唇にひび割れができていた。そしてその表情を見て、部員達は息を呑んだ。
からっぽだった。
淵上はいつも無表情だったが、目の色にいつも感情の気配をただよわせていた。それはほんの僅かなものだったが、毎日彼女と接してきた部員達には読みとることができるものだった。
いまの淵上にはそれがなかった。
感情の気配がまったくないのだ。
淵上は、テーブルに一枚の紙を置くと、無言で部室から出ていった。誰も止めることができなかった。全員が、彼女の暗い迫力に圧倒されていた。
テーブルの上に置かれた紙は、退部届けだった。