恋愛音痴と草食
正直なことを言えば余裕は無かった。
だが、課長に見せられたメールの件は地理的にも時間的にも泊まりがけ出張だった。泊まりがけ出張はウチの会社では特殊事例。佐倉さんと出張は何度かあるが泊まりがけなんて無かった。今後もたぶん無い。
…別に何か起こそうだなどとそんな大胆なことは思ってはいないが、佐倉さんとずっとふたりっきりで行動出来ることに今日の仕事を無理をすることが自動的に決定していた。
終業時刻を過ぎ人がまばらになったフロアで博之は長い指を動かしパソコンに入力していたが、彼にしては珍しくわずかに苦い顔をした。
入力済みのデータを間違えて途中まで打ち込んでいたからだ。
集中が切れてきたのか、そもそも集中出来ないのか、いずれにしてもいつもよりはっきり作業効率が落ちてる。
博之は小さく息をはいて机の右に置かれたコーヒー缶に手を伸ばす。先にあがった結子がわざわざ博之に買って『無理を言ってごめんね。これおわびの一個目』と置いてったものだった。
『一個目?』
二個も三個もあるのか。この人はやりそうだから判断に困る。だからそう返すとかの人は
『明日の私の気分と君の働き具合で決定するかな』
とからかい気味に笑った。
博之はまたしてもフウッとため息をついた。
なんでああもあの人は天然なんだろう。さっき課長に言われた時もそうだった。
『無理っぽそう?』
と言いながら目は来て欲しいと期待しながら見上げて寄越す。
たぶん惚れた弱みというものだろうか、断れる訳が無い。もっともそのつもりも無かったが。
博之は缶コーヒーにそっと口をつけた。
…それはまるでキスするかのように。