伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.11
その夜はお屋敷の人たちとアルトゥール様を含めた、内輪だけのささやかなパーティーが催された。
飾り付けからお料理の準備まで、イリーネ様が計画してくれたらしい。
ピンクやレモン色のリボンをふんだんに使った可愛らしい装飾の中、料理長が腕によりをかけて作ってくれた色とりどりのご馳走がテーブルに並んだ。
焼き立てのミートパイに、私の大好きなブルーベリーのタルト。
ディー様の好物だというローストビーフ、野菜がたくさん入ったポトフにイチゴやオレンジのフルーツボウル。
見た目も香りも食欲を誘う豪華なディナーで、そこには執事長のブルクハルトさんをはじめメイド長のゼルダたちお屋敷で働いている人達も招待されていて、温かな晩餐が始まった。
「ディーお兄様がやっと気持ちを伝えられたお祝い」
とイリーネ様が言うディナーは、実質的にお屋敷にいる全ての人たちに私とディー様の婚約を伝える場となった。
正式な婚約披露は後日改めてすることになったけれど、それはあくまでも形式的なもの。
周囲を牽制する意味もあれば、政治的な意味合いまで持ち合わせたものになるらしい。
どちらにしても本当の意味でお祝いをしたいというイリーネ様の提案に、どうやらゼルダたち全員が賛同してくれたのだという。
イリーネ様は誰よりも私たちの婚約を喜んでくれて、私とディー様の側でずっとはしゃぎながら満面の笑みを浮かべている。
そんな彼女を見守るディー様も穏やかな顔をしていて、幸せな時間が流れていた。
ここにいる誰もが祝福してくれている。
新しい居場所を与えられた気がして、胸がぎゅっと締め付けられたせいでお祝いの席なのに目頭が熱くなってくるから、私は慌ててそっとテラスに出た。
満天の星空を見上げて涙を拭う。
すると、小さくキィという音がして
「エルお姉様」
そこには自分で車いすを動かしてきたイリーネ様がいた。
温かできれいな瞳に私が映されている。
「お姉様、ありがとう」
「え…?」
「ディー兄様を許してくれてありがとう。受け入れてくれて、ありがとう」
「そんな、お礼なら私の方こそ・・」
「ううん。お姉様はすごいわ。本当はとても戸惑ったでしょう?たった一晩で婚約なんて」
「…それは…」
確かに戸惑わなかったと言えば嘘になる。
現に今だってまだ現実味が湧かない。
けれど右手を見れば彼にはめられた証が星のように輝いているし、彼の言葉は全て本当の事だから、これが一番の方法だということも分かっている。
ただほんの少しだけ拭えない不安がある事を、イリーネ様は見抜いているのかもしれない。
彼の気持ちは受け取ったけど、彼が本当に求めているものを私はあげられるかしら。
同じだけの「想い」を返せるかしら。
彼はこんなにも温かい居場所をくれたのに。
すべてを失った私に、懸命に与えてくれているのに。
「大丈夫よ、ゆっくりでいいからディー兄様を好きになって」
「ゆっくり…好きに…?」
「そう。多分ディー兄様は時々ちょっと暴走することがあるかもしれないけど、お姉様を好きな気持ちは誰よりも大きいの。だから絶対お姉様の嫌がる事はしないわ」
それは納得できる。
彼は言葉足らずだから意図せず誰かを傷つけてしまう事があるかもしれない。
けれど相手が傷付いたことを知れば、必ず本音を教えてくれるし素直に謝ってもくれる。
自分の間違いを認められるのは、彼の器が大きい証拠だわ。
何より誠実である証。
婚約の話だって彼の気持ちあってこその事だけれど、必死に私を守ろうとしてくれているのが痛いほど分かる。
彼が心を見せてくれるから、信じられるし受け入れられる。
誤解が解けたのも彼が真摯に向き合ってくれたからだもの。
そんな彼に心が揺れているのも事実だ。
ふわふわと綿毛みたいに軽く漂っているような感覚。
「お姉様からの提案は素敵だわ。お兄様にぴったりだもの。言葉より行動で表す方が得意だから」
心底楽しげにイリーネ様は言う。
彼女の言う「提案」とは、ディー様との「互いの心を見せる」という約束の事だろう。
「どうしてそれを?」
「ふふ、お兄様が教えてくれたの。とっても嬉しかったみたい。普通女性は言葉を欲しがるけど、エルお姉様は違ったんだって喜んでいたのよ。でも気を付けてね?」
「何をですか?」
「お兄様は本気よ?きっとありったけの気持ちを込めてお姉様にアプローチするわ」
「え?」
婚約した後も、アプローチ?
不思議に思って視線で問い返すと、イリーネ様は車いすを私の側に寄せて、内緒話のように顔を寄せてきた。
少しだけかがんで耳を傾ける。
イリーネ様の小さくて柔らかな手が頬に触れた。
そっと私に耳打ちする。
「ディー兄様はエルお姉様に好かれたいのよ。これからずっと、もっと、たくさん。ね」
悪戯に微笑んだ彼女はそのまま室内へ戻ろうと車いすを回転させる。
それを見送るように振り向けば、そこには苦笑気味なディー様がいた。
ドキリと心臓が跳ね上がる。
熱に浮かされたような青い瞳は瑞々しく夜空の光を宿らせて、愛しげにこちらを見つめていた。
誰かにそんな風に見つめられたことなどないから、どうしていいのか分からなくてただ立ちすくんでしまう。
そんな私の様子を見てどう思っただろう。
彼はゆったりとした足取りでこちらに歩み寄ってくる。
身内だけの晩餐でもきちんと黒のタキシードを着こなした、美しく逞しい貴公子。
「イリーネは随分貴女を気に入っているようだ」
「あ、いえ、それは…」
さっと互いの距離を縮められると自然と彼を見上げる形になって、余計に彼の顔が近くなる。
これ以上近付いたらきっと心臓のうるさい音が聞こえちゃう。
そう思ったら照れくさくて恥ずかしくて、思わず彼の胸を両手でそっと押し返してしまったのだけれど、彼は私の手首を優しくつかんで彼の腕に絡ませる。
「ディー様?」
「夜の散歩に行こう。見せたい場所があるんだ」
「一体どこへ?」
「まだ内緒だ。きっと気に入るよ」
穏やかな声はどこか幼子に言い聞かせるような優しさと心地よさを含んでいて、私は静かにこくりと頷いた。
鼻をくすぐる微かな香りに胸がくすぐったい。
昨夜も嗅いだ彼の香り。
何だかほっとする。
いつの間にかこの匂いが私を落ち着かせてくれるようになっていたらしい。
満天の星空の下、恋人同士のように腕を組みながら私たちは広い庭園を並んで歩くのだった。
仄かな甘い花の香りが強くなる。
一体どれほど広大な敷地を持っているのだろう。
夜の暗闇も手伝って、どこをどう歩いたか分からないままディー様に連れられて、たどり着いたのは彼の腰ほどまである何かの垣根が連なる庭園だった。
暗いせいでよく見えないけれど、この香りは多分薔薇だ。
見渡す限り刈り整えられた垣根が続いていて、ところどころ盛り上がった小さな影が見える。
「薔薇、ですね?」
闇に慣れたせいで、見上げたディー様の横顔もはっきり見える。
星空の下では彼の輪郭がことさら鮮明に浮かぶ。
彼は垣根の前まで私を促して、目の前にあった花を一輪摘んだ。
「いい匂いだろう?」
差し出された花に近付いてみると、桃のように瑞々しく甘い香りがした。
その途端、温かな思い出が脳裏に蘇ってくる。
かつてアウシュタイナーのお屋敷にもあった、薄桃色の薔薇園。
植物好きの母が特に気に入った薔薇を丹精込めて育てていたその場所は、私たち家族にとってどこよりもお気に入りの場所で、晴れた日にはよくそこへテーブルセットを用意して食事をした。
その時は必ず母が得意のタルトを焼いてくれて、ゲルタがピクニック用にとサンドウィッチを作ってくれた。
幼い私はいつも両親の間に座って優しく笑う二人を見ながら、母が作ってくれた花冠を喜んで冠っていたのだ。
父は出かける用事があると必ず薔薇の苗を買ってきて、それを母が嬉しそうに植えていた。
おかげで庭は薔薇が増え続け、ハインツが整えてくれていてもまるで迷路のようだった。
いつだってそこには両親の温かな想いがあって、子供心に思っていたのだ。
二人はきっと絵本から出てきた王子様とお姫様なのだと。
「エル?」
「…この薔薇をご存じだったんですね」
「いや、実は、その…」
「?」
急に決まり悪そうに言い淀むから、走馬灯のように浮かんだ思い出に浸っていた気持ちも落ち着いてしまう。
そして少しの後、彼は
「よく知らないんだ」
小さくそう呟いた。
…知らない?
ということは、まさか。
「この薔薇を選んだのは偶然なんだ」
「偶然!?」
「ただ、花を見つけた時、貴女の顔が浮かんだ。初めて会った時は紺のドレスが似合っていたけど、貴女自身は可憐な人だから」
「可憐だなんて」
そんなことない、って言おうとしたら、凛とした瞳でまた唇に人差し指を押し当てられた。
怒っているわけじゃないって分かっているけど、彼の迫力に慣れない私は気圧されてしまう。
多分困惑しているのが伝わったんだろう。
すぐにディー様は額に短いキスをくれた。
「昼間も言ったと思うが、貴女はもっと自分を知った方がいい。自分の姿が他人の目にどう映るのか。私はとても心配だよ。無自覚な貴女が悪い狼に襲われやしないかって」
「まさか!私を襲ったらお腹を壊しちゃうわ」
それに悪い狼ならきっと私のつまらなさに呆れちゃうと思うの。
社交界にはきらきら輝く素敵な女性がたくさんいるもの。
屋敷にこもって読書ばかりして、上手にお喋りできないようなつまらない女性を相手にするとは思えない。
でもディー様はそんな私の考えを見抜いたらしい。
「ここにいる狼は既に貴女を食べてしまいたいんだが」
目を細めて怪訝な顔でこっちを見つめる。
それから私の右手を取り上げて、はめられたままの婚約指輪に柔らかな口づけをした。
「ディー様!?」
思わぬ行動に急激に頬が上気する。
月明かりに照らされて彼の唇があまりにも艶めかしく浮かぶから、何故か自分が口づけされているのを見ているような気分。
「マインシュテルン」
確かに熱を帯びた声が、耳元で囁く。
それは「星」を意味する言葉。
私が、あなたの「星」…?
視線が交われば、心ごと絡め捕られて動けなくなる。
囚われている隙にふっくらした唇が、昨夜のように優しく何度も私の唇を食んだ。
伝わってくるのは彼の体温と、切ないほどに溢れた愛しさ。
ああ、イリーネ様の言葉は本当なんだとぼんやり納得してしまう。
そして彼は自分の欲求を押し殺したように口づけを切り上げると、甘い香りに包まれた薔薇園の真ん中で力強く私を抱きしめた。
「早く私の妻になってくれると嬉しい。まだしばらくは待っているが、いつまで我慢できるか自信がない」
切羽詰まって上ずった声。
そこには私にとってまだ知らない感情を溢れされるディー様がいる。
誰かを好きになる事は、こんなにも苦しい響きを奏でさせるの?
愛する人を求める事は、こんなにも胸が締め付けられるの?
自分の感情を押し殺してまで彼は私を優先してくれている。
好き勝手に事を進めることなく、自分と同じラインに私がたどり着くのを彼は待ってくれている。
恋物語のようなロマンチックな言葉はないけれど、ディー様の言葉はいつも率直で、だからこそ真っ直ぐ私の心を射ぬいていく。
「私、きっとあなたを好きになります」
「エル…?」
うるさいくらい心臓が音を立てるの。
以前読んだ本に書いてあったわ。
もしもこれがあなたに魅かれている証拠だとしたら、多分私はあなたに恋し始めている。
きっかけがどうであれ、あなたがくれる感情の一つ一つに私の心は反応しているんだもの。
だからもう少しだけ待っていて。
必ずあなたにちゃんと「愛しています」と伝えるから、あと少しだけ時間を下さい。
あなたの心に墜ちるまで、きっと、もうすぐだから。
続く
その夜はお屋敷の人たちとアルトゥール様を含めた、内輪だけのささやかなパーティーが催された。
飾り付けからお料理の準備まで、イリーネ様が計画してくれたらしい。
ピンクやレモン色のリボンをふんだんに使った可愛らしい装飾の中、料理長が腕によりをかけて作ってくれた色とりどりのご馳走がテーブルに並んだ。
焼き立てのミートパイに、私の大好きなブルーベリーのタルト。
ディー様の好物だというローストビーフ、野菜がたくさん入ったポトフにイチゴやオレンジのフルーツボウル。
見た目も香りも食欲を誘う豪華なディナーで、そこには執事長のブルクハルトさんをはじめメイド長のゼルダたちお屋敷で働いている人達も招待されていて、温かな晩餐が始まった。
「ディーお兄様がやっと気持ちを伝えられたお祝い」
とイリーネ様が言うディナーは、実質的にお屋敷にいる全ての人たちに私とディー様の婚約を伝える場となった。
正式な婚約披露は後日改めてすることになったけれど、それはあくまでも形式的なもの。
周囲を牽制する意味もあれば、政治的な意味合いまで持ち合わせたものになるらしい。
どちらにしても本当の意味でお祝いをしたいというイリーネ様の提案に、どうやらゼルダたち全員が賛同してくれたのだという。
イリーネ様は誰よりも私たちの婚約を喜んでくれて、私とディー様の側でずっとはしゃぎながら満面の笑みを浮かべている。
そんな彼女を見守るディー様も穏やかな顔をしていて、幸せな時間が流れていた。
ここにいる誰もが祝福してくれている。
新しい居場所を与えられた気がして、胸がぎゅっと締め付けられたせいでお祝いの席なのに目頭が熱くなってくるから、私は慌ててそっとテラスに出た。
満天の星空を見上げて涙を拭う。
すると、小さくキィという音がして
「エルお姉様」
そこには自分で車いすを動かしてきたイリーネ様がいた。
温かできれいな瞳に私が映されている。
「お姉様、ありがとう」
「え…?」
「ディー兄様を許してくれてありがとう。受け入れてくれて、ありがとう」
「そんな、お礼なら私の方こそ・・」
「ううん。お姉様はすごいわ。本当はとても戸惑ったでしょう?たった一晩で婚約なんて」
「…それは…」
確かに戸惑わなかったと言えば嘘になる。
現に今だってまだ現実味が湧かない。
けれど右手を見れば彼にはめられた証が星のように輝いているし、彼の言葉は全て本当の事だから、これが一番の方法だということも分かっている。
ただほんの少しだけ拭えない不安がある事を、イリーネ様は見抜いているのかもしれない。
彼の気持ちは受け取ったけど、彼が本当に求めているものを私はあげられるかしら。
同じだけの「想い」を返せるかしら。
彼はこんなにも温かい居場所をくれたのに。
すべてを失った私に、懸命に与えてくれているのに。
「大丈夫よ、ゆっくりでいいからディー兄様を好きになって」
「ゆっくり…好きに…?」
「そう。多分ディー兄様は時々ちょっと暴走することがあるかもしれないけど、お姉様を好きな気持ちは誰よりも大きいの。だから絶対お姉様の嫌がる事はしないわ」
それは納得できる。
彼は言葉足らずだから意図せず誰かを傷つけてしまう事があるかもしれない。
けれど相手が傷付いたことを知れば、必ず本音を教えてくれるし素直に謝ってもくれる。
自分の間違いを認められるのは、彼の器が大きい証拠だわ。
何より誠実である証。
婚約の話だって彼の気持ちあってこその事だけれど、必死に私を守ろうとしてくれているのが痛いほど分かる。
彼が心を見せてくれるから、信じられるし受け入れられる。
誤解が解けたのも彼が真摯に向き合ってくれたからだもの。
そんな彼に心が揺れているのも事実だ。
ふわふわと綿毛みたいに軽く漂っているような感覚。
「お姉様からの提案は素敵だわ。お兄様にぴったりだもの。言葉より行動で表す方が得意だから」
心底楽しげにイリーネ様は言う。
彼女の言う「提案」とは、ディー様との「互いの心を見せる」という約束の事だろう。
「どうしてそれを?」
「ふふ、お兄様が教えてくれたの。とっても嬉しかったみたい。普通女性は言葉を欲しがるけど、エルお姉様は違ったんだって喜んでいたのよ。でも気を付けてね?」
「何をですか?」
「お兄様は本気よ?きっとありったけの気持ちを込めてお姉様にアプローチするわ」
「え?」
婚約した後も、アプローチ?
不思議に思って視線で問い返すと、イリーネ様は車いすを私の側に寄せて、内緒話のように顔を寄せてきた。
少しだけかがんで耳を傾ける。
イリーネ様の小さくて柔らかな手が頬に触れた。
そっと私に耳打ちする。
「ディー兄様はエルお姉様に好かれたいのよ。これからずっと、もっと、たくさん。ね」
悪戯に微笑んだ彼女はそのまま室内へ戻ろうと車いすを回転させる。
それを見送るように振り向けば、そこには苦笑気味なディー様がいた。
ドキリと心臓が跳ね上がる。
熱に浮かされたような青い瞳は瑞々しく夜空の光を宿らせて、愛しげにこちらを見つめていた。
誰かにそんな風に見つめられたことなどないから、どうしていいのか分からなくてただ立ちすくんでしまう。
そんな私の様子を見てどう思っただろう。
彼はゆったりとした足取りでこちらに歩み寄ってくる。
身内だけの晩餐でもきちんと黒のタキシードを着こなした、美しく逞しい貴公子。
「イリーネは随分貴女を気に入っているようだ」
「あ、いえ、それは…」
さっと互いの距離を縮められると自然と彼を見上げる形になって、余計に彼の顔が近くなる。
これ以上近付いたらきっと心臓のうるさい音が聞こえちゃう。
そう思ったら照れくさくて恥ずかしくて、思わず彼の胸を両手でそっと押し返してしまったのだけれど、彼は私の手首を優しくつかんで彼の腕に絡ませる。
「ディー様?」
「夜の散歩に行こう。見せたい場所があるんだ」
「一体どこへ?」
「まだ内緒だ。きっと気に入るよ」
穏やかな声はどこか幼子に言い聞かせるような優しさと心地よさを含んでいて、私は静かにこくりと頷いた。
鼻をくすぐる微かな香りに胸がくすぐったい。
昨夜も嗅いだ彼の香り。
何だかほっとする。
いつの間にかこの匂いが私を落ち着かせてくれるようになっていたらしい。
満天の星空の下、恋人同士のように腕を組みながら私たちは広い庭園を並んで歩くのだった。
仄かな甘い花の香りが強くなる。
一体どれほど広大な敷地を持っているのだろう。
夜の暗闇も手伝って、どこをどう歩いたか分からないままディー様に連れられて、たどり着いたのは彼の腰ほどまである何かの垣根が連なる庭園だった。
暗いせいでよく見えないけれど、この香りは多分薔薇だ。
見渡す限り刈り整えられた垣根が続いていて、ところどころ盛り上がった小さな影が見える。
「薔薇、ですね?」
闇に慣れたせいで、見上げたディー様の横顔もはっきり見える。
星空の下では彼の輪郭がことさら鮮明に浮かぶ。
彼は垣根の前まで私を促して、目の前にあった花を一輪摘んだ。
「いい匂いだろう?」
差し出された花に近付いてみると、桃のように瑞々しく甘い香りがした。
その途端、温かな思い出が脳裏に蘇ってくる。
かつてアウシュタイナーのお屋敷にもあった、薄桃色の薔薇園。
植物好きの母が特に気に入った薔薇を丹精込めて育てていたその場所は、私たち家族にとってどこよりもお気に入りの場所で、晴れた日にはよくそこへテーブルセットを用意して食事をした。
その時は必ず母が得意のタルトを焼いてくれて、ゲルタがピクニック用にとサンドウィッチを作ってくれた。
幼い私はいつも両親の間に座って優しく笑う二人を見ながら、母が作ってくれた花冠を喜んで冠っていたのだ。
父は出かける用事があると必ず薔薇の苗を買ってきて、それを母が嬉しそうに植えていた。
おかげで庭は薔薇が増え続け、ハインツが整えてくれていてもまるで迷路のようだった。
いつだってそこには両親の温かな想いがあって、子供心に思っていたのだ。
二人はきっと絵本から出てきた王子様とお姫様なのだと。
「エル?」
「…この薔薇をご存じだったんですね」
「いや、実は、その…」
「?」
急に決まり悪そうに言い淀むから、走馬灯のように浮かんだ思い出に浸っていた気持ちも落ち着いてしまう。
そして少しの後、彼は
「よく知らないんだ」
小さくそう呟いた。
…知らない?
ということは、まさか。
「この薔薇を選んだのは偶然なんだ」
「偶然!?」
「ただ、花を見つけた時、貴女の顔が浮かんだ。初めて会った時は紺のドレスが似合っていたけど、貴女自身は可憐な人だから」
「可憐だなんて」
そんなことない、って言おうとしたら、凛とした瞳でまた唇に人差し指を押し当てられた。
怒っているわけじゃないって分かっているけど、彼の迫力に慣れない私は気圧されてしまう。
多分困惑しているのが伝わったんだろう。
すぐにディー様は額に短いキスをくれた。
「昼間も言ったと思うが、貴女はもっと自分を知った方がいい。自分の姿が他人の目にどう映るのか。私はとても心配だよ。無自覚な貴女が悪い狼に襲われやしないかって」
「まさか!私を襲ったらお腹を壊しちゃうわ」
それに悪い狼ならきっと私のつまらなさに呆れちゃうと思うの。
社交界にはきらきら輝く素敵な女性がたくさんいるもの。
屋敷にこもって読書ばかりして、上手にお喋りできないようなつまらない女性を相手にするとは思えない。
でもディー様はそんな私の考えを見抜いたらしい。
「ここにいる狼は既に貴女を食べてしまいたいんだが」
目を細めて怪訝な顔でこっちを見つめる。
それから私の右手を取り上げて、はめられたままの婚約指輪に柔らかな口づけをした。
「ディー様!?」
思わぬ行動に急激に頬が上気する。
月明かりに照らされて彼の唇があまりにも艶めかしく浮かぶから、何故か自分が口づけされているのを見ているような気分。
「マインシュテルン」
確かに熱を帯びた声が、耳元で囁く。
それは「星」を意味する言葉。
私が、あなたの「星」…?
視線が交われば、心ごと絡め捕られて動けなくなる。
囚われている隙にふっくらした唇が、昨夜のように優しく何度も私の唇を食んだ。
伝わってくるのは彼の体温と、切ないほどに溢れた愛しさ。
ああ、イリーネ様の言葉は本当なんだとぼんやり納得してしまう。
そして彼は自分の欲求を押し殺したように口づけを切り上げると、甘い香りに包まれた薔薇園の真ん中で力強く私を抱きしめた。
「早く私の妻になってくれると嬉しい。まだしばらくは待っているが、いつまで我慢できるか自信がない」
切羽詰まって上ずった声。
そこには私にとってまだ知らない感情を溢れされるディー様がいる。
誰かを好きになる事は、こんなにも苦しい響きを奏でさせるの?
愛する人を求める事は、こんなにも胸が締め付けられるの?
自分の感情を押し殺してまで彼は私を優先してくれている。
好き勝手に事を進めることなく、自分と同じラインに私がたどり着くのを彼は待ってくれている。
恋物語のようなロマンチックな言葉はないけれど、ディー様の言葉はいつも率直で、だからこそ真っ直ぐ私の心を射ぬいていく。
「私、きっとあなたを好きになります」
「エル…?」
うるさいくらい心臓が音を立てるの。
以前読んだ本に書いてあったわ。
もしもこれがあなたに魅かれている証拠だとしたら、多分私はあなたに恋し始めている。
きっかけがどうであれ、あなたがくれる感情の一つ一つに私の心は反応しているんだもの。
だからもう少しだけ待っていて。
必ずあなたにちゃんと「愛しています」と伝えるから、あと少しだけ時間を下さい。
あなたの心に墜ちるまで、きっと、もうすぐだから。
続く