伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.13 前編
ある夜、夢を見た。
上を見上げても足元を覗いてみても、右を見ても左を見ても、ただ暗闇ばかりが広がっている。
不意に背後が淡く白めいたと思ったら、もう二度と見たくないと思った景色が浮かんでいた。
喉に声が詰まって悲鳴さえ上げられない。
金縛りにあったように身動き一つ出来なくなって、呼吸さえも奪われていく。
別人のように変わり果てたお父様の最後の姿。
お屋敷の片隅に植えられた大きな木の太い枝にぶら下がっていたお父様の亡骸は、青緑がかった色をして、どこか人形のようだった。
あるいは信じられなかったのかもしれない。
というより、信じたくなかった。
誰よりも優しく私を見守り育ててくれたお父様が、あんな姿で発見されるなんて…もうこの世にはいないなんて…。
お父様が亡くなる前日の夕方、いつもは見せたことのないような難しい顔をしてお父様は家を出ようとしていた。
一体どうしてか分からないけれど私は胸騒ぎがして
「お父様、どうなさったの?どうしても行かなければいけない用事なの?」
明確な言葉にこそしなかったけれど、本音を言えば引き留めたかった。
そんな私にお父様は優しく微笑みかけて頭を撫でると
「大丈夫だから早く休みなさい」
と出かけて行った。
今思えば、何が何でも止めるべきだったのだ。
夜がどんなに更けてもお父様は帰らなかった。
お母様も私も、執事のクラウスもメイドのゲルタも庭師のハインツも、誰一人お父様の行先を知らされておらず、どこに電話をかけても行方は分からなかった。
そうして翌朝、変わり果てたお父様の姿が発見された。
誰もが目の前の光景から目をそむけ、お母様は途端に気を失ってしまった。
私だけが呆然とお父様の姿を見つめ続け…血の気の失せた冷たいお父様の手をそっと握った。
どうして。
ねえどうしてお父様が死ななければならなかったの?
なぜ一人で逝ってしまったの。
夢なのか現実なのか分からないけれど、私は必死に問いかけていた。
けれどそのうちお父様の閉じられた瞳から一筋の涙がこぼれて、私はまた暗闇の中に投げ出される。
嘆き悲しむお母様の姿が浮かんですぐ消えた。
心配そうにこちらを見つめるクラウスとゲルダの姿も見えたけれど、手を伸ばす前に消えてしまった。
ハインツは背中を向けたまま遠ざかっていく。
代わりに凶悪な笑みを浮かべて近づいてくるのはアウラー男爵で、彼の太い指が私の首に食い込んだ。
ぎりぎりと締め付けられる。
助けを求めたいのに声が出ない。
何度ももがいて必死に喉に力を入れるけれど、蚊の鳴くような声さえ出せずに意識が遠のいていく。
残るのは苦しさだけ。
「…ま、…さま、…てください、…さま」
不意に声が聞こえた。
途切れ途切れで何を言っているのか分からないのに、何故かその声が知っている人の声のような気がして、必死に手を伸ばした。
誰?
誰でもいい。
お願い助けて。
「エルフリーデ様!」
「っ!?」
突然声が大きく響いたと思ったら、意識まで完全に現実へと引き戻されたらしい。
眉間にしわを寄せて心底心配そうなゼルダの顔があった。
明かりを点けてくれたのだろう、部屋もぼんやり明るい。
ゼルダはすぐに柔らかなタオルで顔を拭いてくれる。
「酷くうなされておいででしたよ?一体どんな夢をご覧になったんです?」
「…お父様の夢よ。亡くなった時の…」
「まあ…そうでしたか…」
「お父様は突然亡くなって、一緒にいたはずのみんなもいなくなったわ。お母様だって…。それにアウラー男爵に殺されそうになった。もちろん現実でそんなことはされなかったけど…」
きっと記憶と不安がごちゃ混ぜになったのだろう。
夢の中の出来事にそう理由をつけて納得する。
何だか体がだるくてあちこち痛い。
全身に力が入って強張っていたようだ。
深く息を吐くと、体中が解けていく気がした。
上半身だけを起こしてヘッドボードに寄り掛かると、ゼルダはホットミルクをくれた。
「ありがとう、ゼルダ」
「どうかお気になさらず。私は当然のことをしたまでです。それよりエルフリーデ様、まだ朝までずいぶん時間がございます。お休みになられますか?」
「…いいえ、少しこのままでいます。ゼルダはゆっくり休んでね。明日の朝も早いでしょう?」
「明日の事よりエルフリーデ様が心配です。私が朝まで…」
「大丈夫よ。ちょっと夢見が悪かっただけだもの。これを飲んだら随分落ち着いたから」
手にしていたマグカップを持ち上げてみせると、幾分ゼルダも安心したような顔をした。
それでも彼女は心配してくれていたけれど、寝不足で倒れたりしたら大変だからというと、ゼルダは「悪夢から身を守ってくれる」と言って、ジュエリーボックスから出した紫色の石で造られた指輪を私の指にはめてから部屋を出て行った。
ある夜、夢を見た。
上を見上げても足元を覗いてみても、右を見ても左を見ても、ただ暗闇ばかりが広がっている。
不意に背後が淡く白めいたと思ったら、もう二度と見たくないと思った景色が浮かんでいた。
喉に声が詰まって悲鳴さえ上げられない。
金縛りにあったように身動き一つ出来なくなって、呼吸さえも奪われていく。
別人のように変わり果てたお父様の最後の姿。
お屋敷の片隅に植えられた大きな木の太い枝にぶら下がっていたお父様の亡骸は、青緑がかった色をして、どこか人形のようだった。
あるいは信じられなかったのかもしれない。
というより、信じたくなかった。
誰よりも優しく私を見守り育ててくれたお父様が、あんな姿で発見されるなんて…もうこの世にはいないなんて…。
お父様が亡くなる前日の夕方、いつもは見せたことのないような難しい顔をしてお父様は家を出ようとしていた。
一体どうしてか分からないけれど私は胸騒ぎがして
「お父様、どうなさったの?どうしても行かなければいけない用事なの?」
明確な言葉にこそしなかったけれど、本音を言えば引き留めたかった。
そんな私にお父様は優しく微笑みかけて頭を撫でると
「大丈夫だから早く休みなさい」
と出かけて行った。
今思えば、何が何でも止めるべきだったのだ。
夜がどんなに更けてもお父様は帰らなかった。
お母様も私も、執事のクラウスもメイドのゲルタも庭師のハインツも、誰一人お父様の行先を知らされておらず、どこに電話をかけても行方は分からなかった。
そうして翌朝、変わり果てたお父様の姿が発見された。
誰もが目の前の光景から目をそむけ、お母様は途端に気を失ってしまった。
私だけが呆然とお父様の姿を見つめ続け…血の気の失せた冷たいお父様の手をそっと握った。
どうして。
ねえどうしてお父様が死ななければならなかったの?
なぜ一人で逝ってしまったの。
夢なのか現実なのか分からないけれど、私は必死に問いかけていた。
けれどそのうちお父様の閉じられた瞳から一筋の涙がこぼれて、私はまた暗闇の中に投げ出される。
嘆き悲しむお母様の姿が浮かんですぐ消えた。
心配そうにこちらを見つめるクラウスとゲルダの姿も見えたけれど、手を伸ばす前に消えてしまった。
ハインツは背中を向けたまま遠ざかっていく。
代わりに凶悪な笑みを浮かべて近づいてくるのはアウラー男爵で、彼の太い指が私の首に食い込んだ。
ぎりぎりと締め付けられる。
助けを求めたいのに声が出ない。
何度ももがいて必死に喉に力を入れるけれど、蚊の鳴くような声さえ出せずに意識が遠のいていく。
残るのは苦しさだけ。
「…ま、…さま、…てください、…さま」
不意に声が聞こえた。
途切れ途切れで何を言っているのか分からないのに、何故かその声が知っている人の声のような気がして、必死に手を伸ばした。
誰?
誰でもいい。
お願い助けて。
「エルフリーデ様!」
「っ!?」
突然声が大きく響いたと思ったら、意識まで完全に現実へと引き戻されたらしい。
眉間にしわを寄せて心底心配そうなゼルダの顔があった。
明かりを点けてくれたのだろう、部屋もぼんやり明るい。
ゼルダはすぐに柔らかなタオルで顔を拭いてくれる。
「酷くうなされておいででしたよ?一体どんな夢をご覧になったんです?」
「…お父様の夢よ。亡くなった時の…」
「まあ…そうでしたか…」
「お父様は突然亡くなって、一緒にいたはずのみんなもいなくなったわ。お母様だって…。それにアウラー男爵に殺されそうになった。もちろん現実でそんなことはされなかったけど…」
きっと記憶と不安がごちゃ混ぜになったのだろう。
夢の中の出来事にそう理由をつけて納得する。
何だか体がだるくてあちこち痛い。
全身に力が入って強張っていたようだ。
深く息を吐くと、体中が解けていく気がした。
上半身だけを起こしてヘッドボードに寄り掛かると、ゼルダはホットミルクをくれた。
「ありがとう、ゼルダ」
「どうかお気になさらず。私は当然のことをしたまでです。それよりエルフリーデ様、まだ朝までずいぶん時間がございます。お休みになられますか?」
「…いいえ、少しこのままでいます。ゼルダはゆっくり休んでね。明日の朝も早いでしょう?」
「明日の事よりエルフリーデ様が心配です。私が朝まで…」
「大丈夫よ。ちょっと夢見が悪かっただけだもの。これを飲んだら随分落ち着いたから」
手にしていたマグカップを持ち上げてみせると、幾分ゼルダも安心したような顔をした。
それでも彼女は心配してくれていたけれど、寝不足で倒れたりしたら大変だからというと、ゼルダは「悪夢から身を守ってくれる」と言って、ジュエリーボックスから出した紫色の石で造られた指輪を私の指にはめてから部屋を出て行った。