伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.20



 主のいなくなった書斎に一人佇む。
 上等な生地で丁寧に装丁された分厚くて難しそうな専門書がずらりと壁を覆い尽くしている様子は、慣れない人にとって威圧感ばかりを抱く場所かもしれない。
 でも私にとっては落ち着く場所であり、変に騒ぎ立てる鼓動を鎮めるための場所。
 部屋を出るディー様の姿は、完全にあの日のお父様の背中と重なった。
 眉間にしわを寄せて酷く険しい表情を浮かべたお父様は帰らぬ人になった。
 対照的にディー様は私に話してくれた以上に綿密な調査行い緻密な計画を立てた上で、アルトゥール様やお屋敷に勤めている衛兵や部下を引き連れて、意気揚々と出かけていった。
 解ってるの、本当は。
 きっとディー様は無事に帰ってくる。
 けれど怖くて仕方ない。
 例え百戦錬磨の彼らだとしても、何が起こるか分からない。
 「万が一」という危険は常に付きまとう。
 二度と大切な人を失いたくない。
 心臓を八つ裂きにされたような苦しさと、自分の全てが内側からすっかり消え去ってしまうようなあんな思いを再び味わうなんて…想像しただけでぞっとする。
 どんなかすり傷でさえディー様が傷付くなんて嫌。
 まして私のためにしてくれていることで彼に何かあったら…。
 考えれば考えるほど浮かんでくるのは最悪の光景で、余計落ち着かなくなって部屋を行ったり来たりしてしまう。
 ディー様の香りが残るこの部屋なら少しは落ち着くだろうと思っていたのに、どうやら違ったらしい。
 彼の匂いを嗅いだら、心配で心配でたまらなくなった。
「エルフリーデ様、落ち着くためにお茶はいかがですか」
「ゼルダ…」
「ハーブティーをご用意したんです。こちらでお召し上がりになりますか?」
 ゼルダはいつも通り深い微笑みを浮かべて問いかけてくれる。
 きっと私の様子を見守ってくれたいたのだろう。
 彼女の背後にガラスのポットとティーセットが載せられたワゴンが見える。
 一緒に用意されているのは料理長が作ってくれたケーキだ。
 こちらのお屋敷に来てからしばらく経つけれど、ゼルダも料理長も私たちの感情に敏感だ。
 いつもその時に一番必要なものを用意して、さりげなく手を差し伸べてくれる。
 常に気を配りながら決してでしゃばることなく主を立て、何があっても対応できるようあらゆる準備を整えてくれる。
 そしておおらかな心で包み込んでくれる。
 お屋敷全体がぬくもりに溢れていて、まるでディー様そのものみたい。
 表面はとっても不器用だけれど、彼の内側は温かな優しさに満ちている。
 それは多分ゼルダたち先代から仕えてくれている人々が、しっかりと愛情で彼を見守り育ててくれたからだろう。
 何だかふっと切なくなる。
 私もそうだった。
 幼い頃からゲルタやクラウスがいて、ハインツがいてくれた。
 悲しい事があった時も、嬉しい事があった時も、いつだって側にいてくれて支えてくれた。
 彼らは今、どうしているんだろう。
 そんなことを考えて、ゼルダに視線を戻す。
 ディー様は私が書斎にいても快く許してくださるだろう。
 でもハーブ独特の香りが広がれば、ここに残っている微かなディー様の香りが消えてしまうから。
「自分の部屋へ戻るわ」
「よろしいのですか?」
「だってここでお茶をいただいたら、ディー様の香りが消えてしまうでしょう?」
 そう言うと私の考えが読めたらしい。
 ゼルダはすぐに
「承知いたしました」
 と告げてワゴンを私の部屋へ運んでくれる。
 そこへ戻ればゼルダは慣れた手つきで、すっきりと清涼感のあるハーブティーを淹れてくれた。
「旦那様もアルトゥール様もお強い方ですから、きっと予定より大きな成果を上げて帰っていらっしゃいますよ。エルフリーデ様がいらしてから、旦那様は以前よりお強く、逞しくなられましたもの」
「以前より?」
「はい。元々聡明で文武両道な方でしたが、その能力は「戦う術」であることがほとんどでしたから、相手を攻め一刀両断に伏すための鋭く大きな剣のようでした。でも今は何としてでも守り抜きたいものが出来たおかげでしょうね、まるでどんな剣も通さない強固な盾のようです」
「盾?」
「しっかりと自分の腕でエルフリーデ様をお守り出来るように、そして同時に剣を抜くことも出来るように。幼い頃からとてもお優しい方でしたから、本来のご自分に戻れているのかもしれません。皆喜んでいるんですよ、旦那様の変化を」
 ゼルダは殊更嬉しげにそう言った。
 まるでお母様みたいな笑顔を浮かべている。
 きっとゼルダはご両親よりずっと近くでディー様を見守ってきたのだろう。
 かつて私の側にいてくれたゲルタのように。
 お父様もお母様も私と過ごす時間を大切にしてくれたから、二人の愛情をたっぷり注がれていたし、孤独感なんて抱いたことなどなかった。
 ただ二人以上に身近にいて、たくさんの事を教えてくれたのはゲルタだ。
 彼女には成人した二人の息子がいて、私を娘のように可愛がってくれた。
 危険な事をすれば叱ってくれたし、なんでも上手に出来ると思い切りほめてくれて、幼い私が一人寝を怖がると眠るまでずっと手を握ってくれていた。
 ゼルダを見ていると、懐かしい思い出と共にゲルタの姿が浮かんでくる。
「エルフリーデ様?」
「あ…ううん、大丈夫。ちょっと思い出しただけ。…今頃ゲルタはどうしているかしら」
「もしやご実家に勤めていらした方ですか?」
「ええ、メイド長よ。お父様の事件があって別のお屋敷へ行ってしまったけれど、最後まで一緒にいると言い続けてくれたの。私にとって先生であり、もう一人のお母様みたいな人」
「そうでしたか…」
「執事長のクラウスは優しいおじい様だったわ。ゲルタと二人で何があっても私についていくと言ってくれたのだけれど、尚更犠牲になんてしたくなかった。だから…もしも二人がアウシュタイナーのお屋敷が戻ったって知ったら、喜んでくれるかしら?」
「もちろんです!それにエルフリーデ様がご無事でいらしたと分かれば涙を流してお喜びになるでしょう」
「いつかちゃんと伝えたい。私は元気で、幸せに暮らしてるって」
「では婚約披露パーティーにご招待してはいかがです?旦那様なら二つ返事で承諾してくださいますよ」
「ディー様が帰ってきたら相談してみるわ。あ…でも…」
「どうなさいました?」
 ゼルダの提案にすっかり浮上した気持ちも、ふと静まってしまう。
 一つ、ある事を思い出したからだ。
 ゲルタもクラウスも現在働いているお屋敷がどちらなのか知っている。
 だから招待状を出すことも出来るし、ひと段落すれば会いに行くことだってできるだろう。
 でも一人だけ行方の分からない人物がいる。
 ハインツだ。
 一番年齢が近くて兄のように慕っていたハインツは、事件の数日後一枚のメモだけを残して姿を消してしまったのだ。
 ただ一言「ご恩は生涯忘れません」とだけ書き残して。
「本当はもう一人パーティーに来て欲しい人がいるの」
「どなたです?」
「庭師のハインツ。私の遊び相手で、お兄様のような人。でも行方が分からないの」
「それは残念でございますね…ブルクハルト様に行方を捜してくださるようお願いしてみますか?」
「ぜひお願いしたいけど、お仕事を増やすことになっちゃうわ」
「大丈夫ですよ。こちらには優秀な人材が揃っておいでです。ブルクハルト様はお忙しいと思いますが、他の方に指示を出してくださるはずですよ。皆喜んでエルフリーデ様のお役にたちますわ」
 ゼルダは胸を張ってそう言うと、ティータイムを終えると同時にブルクハルトさんの元へ話をつけに行ってくれた。

 私は一人部屋に残って窓から見える庭園を見下ろす。
 きれいに刈り整えられた緑の垣根が瑞々しく太陽の光を反射する様は美しい。
 奥に見える薔薇園では色とりどりの花びらが誇らしげに咲いている。
 アウシュタイナーのお屋敷にある薔薇園はどうなっているかしら。
 ハインツは口数の少ない人だったけれど、その腕前は他の庭師を凌ぐほど立派で、植物に関する知識も豊富だった。
 見たこともない花を摘んでは彼の元へ持っていく私に、名前はもちろん花言葉まで教えてくれたのは彼だ。
 暇さえあれば大好きな本を抱えて庭園へ行き、作業中のハインツの側で読書をしたりおしゃべりをしたり、そんな私をハインツはいつも微笑みながら受け入れてくれた。
 初めてお屋敷に来てくれた時はとても強張った顔をして、どうして怒っているのかしらと思ったくらいだったけれど、毎日顔を合わせているうちに少しずつ打ち解けてくれたのだ。
 最初は何を話しかけても「はい」しか言ってくれなくて、嫌われているのかと悲しんだこともあった。
 けれど何故か彼の時折見せる寂しげな、そして傷付いたような横顔が放っておけなくて、毎日庭園に通っていたのだ。
 変わらない返事に一切目を合わせようとしない彼に、一度私は泣いて訴えたことがある。
「お友達になって。私を嫌いにならないで」
 泣きじゃくる私を見て慌てたハインツはようやく視線を合わせてくれた。
 そして私に問いかけたのだ。
「どうしてあなたは私を気にかけてくれるのか」
 と。
 それからだった。
 ハインツは少しずつ笑うようになって、返事も「はい」からバリエーションが増えていき、気付けば自然な会話が交わせるようになっていた。
 相変わらず舞踏会を嫌い、読書をしながら空想ばかり楽しんでいる私を、彼は心配しながら「お嬢様らしくていいですよ」と肯定してくれて、舞踏会の招待状を持ったお父様から逃げて庭園に隠れる私をよく匿ってくれた。
 心から兄のように慕っていた。
 大好きだった。
 だから、どうして突然いなくなったのか…残された書置きだけを見た時、漠然とした悲しみが溢れてきて、ただただ涙がこぼれた。
 彼を失望させてしまったのかと思ったから。
 真意は今も分からないままだけれど、彼が幸せに暮らしてくれていればそれでいい。
 招待状を受け取ってもらえなくてもいい。
 彼らが息災でいるのなら。
 そう願う私の足は、自然と外に広がる庭園に向かっていた。





 続く
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