伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.23
数日間、二つの国を旅し続けたレオンは、しかしきっちりとグレンチェックコートを身につけ、ディー様に促されて椅子に腰掛けると同時にそれを丁寧に脱ぐと、すぐに通常業務に就けるようにとバウムガルト家の紋章が胸に刺繍された深緑色のウエストコート姿になった。
さんざん歩き続けたはずの彼に疲労をうかがわせる表情はほとんどなく、クロスタイもスラックスも一筋のシワもないまま着こなされている。
さすがディー様とブルクハルトさんが見込んだ人物だ。
出発前より自信に満ちた輝きを浮かべて凛とした様子のレオンは手にしていた数枚の書類と一通の封筒をテーブルに並べた。
「カミラ・クリストフの足取りが掴めました。これを見てください。こちらは彼女の洗礼記録です。エアフォルクの最南端にある小さなヴァイヒという村で生まれた事が記されています。あそこは作物が豊富に収穫できる土地ですから、持て余すほど裕福ではないものの、孤児院では野菜や果物を栽培しながらのんびり穏やかに育てられたようです。現在も当時の院長はご健在で、カミラの事もよく覚えていらっしゃいました」
レオンはそう言うと彼女の洗礼記録をディー様に手渡し、ウエストコートの内ポケットから色あせたモノクロ写真を一枚取り出した。
そこには幼い子供達とひと組の夫婦が満面の笑みを浮かべて写っている。
「愛情いっぱいに育てられた子供たちは自立心も旺盛で、誰もが皆大人になったら院長夫妻に恩返しがしたいと考えていたようです。カミラも同様に夫妻を手助けすべく、首都で仕事に就こうとしていた矢先、ある日突然出されたバルツァー侯爵家の求人に喜んで申し込んだ結果…」
「音信不通になった?」
アトゥール様の瞳が鋭く細められる。
「はい。不審に思った院長が侯爵家へ問い合せても、彼女は来ていない、の一点張りだったそうです」
「だがブルーノの証言にあるように彼女は確かに侯爵家を訪ねている。その後カミラはどこへ行ったんだ?」
「フェアエンデルングです」
「やはりそうか。アウシュタイナー伯爵と出会ったのも?」
「その通りです。伯爵がエルフリーデ様に託されたあの写真は、フェアエンデルングにある古い写真屋で撮られたものでした。旅行中だった伯爵が偶然、フラフラと彷徨い歩いていたカミラを見つけ保護した事から親しくなったようです。彼女の身に起きた全てを知った伯爵は彼女をフェアエンデルングの知り合いの家へ預け、匿ったそうです」
「知り合いの家?」
「古くから懇意にしている庭師の家です。しばらくの間伯爵もそこで彼女の様子を見守っていたようですが、彼女自身が落ち着いたことと周囲の安全が確認出来たことで、伯爵はエアフォルクに戻られたとの事。その際カミラの育った孤児院に送るようにと、例の写真を撮りに来たと写真屋の主人が教えてくれました。その内の一枚を伯爵は持ち帰られたのでしょう」
「しかしフェアエンデルングにいたのなら、どうしてヨアヒムの洗礼記録はエアフォルクの教会で見つかったんだ?彼女はいつこっちに戻ってきた?」
「ヨアヒムが生まれてすぐです。危険は覚悟していたのでしょう。けれど何かにつけ彼女を心配し、面倒を見続けてくれていた伯爵にヨアヒムを見せに行きたいと、彼女はこちらへ戻ったそうです。そこでまだ洗礼を受けていなかったヨアヒムを連れ、彼の後見人として伯爵が洗礼に立ち会ったのです。カミラはその後再びフェアエンデルングに戻り彼を育てたようですが、数年後流行病に倒れ亡くなりました」
「ヨアヒムは?」
「庭師が養子として育て続けました。伯爵も援助を続けていたようですが、ヨアヒムにご自身の存在を明かしてはいません。あくまでも養父である庭師が全面的に世話していた事になっています」
「なるほど…」
「ただ庭師が亡くなった後、ヨアヒムがどこでどうしているのか…それは掴めませんでしたが、噂では彼もエアフォルクにいるのではないかと」
レオンは静かにそう告げた。
この数日でよくぞそこまで調べ上げたものだ。
三人の会話を聞きながら感心しきりの私は大人しく耳を傾けながら、邪魔をしないようにそっと二人分のお茶を追加で淹れ直し、レオンにも温かな紅茶を用意した。
彼は私が淹れたお茶に恐縮していたけれど、ディー様に促されたことで少し気分も和らいだのか、嬉しそうに口をつけてくれる。
それから彼はテーブルに置かれていた封筒に手を伸ばす。
「行方はわかっていませんが、こちらはヨアヒムの写真です。どうぞご覧ください」
「!?」
長い指先が中から取り出したそれに、私は目を見開いた。
無造作に短く切られた硬い髪、骨ばった輪郭と庭仕事で鍛えられた逞しい体は決して大柄ではないが筋肉質で力強く、屈託のないくしゃりとした優しい笑顔を浮かべている。
その全てにハッとした。
次の瞬間鮮明だったはずの視界は急速にぼやけ始める。
ぱたりとドレスに雫が落ちた。
「エル?」
「エルフリーデ様!?」
ディー様とレオンの慌てた声が聞こえたけれど、私の頬を伝うものを止めることなんて出来なかった。
だって…私、彼を知ってる。
よく知ってるわ。
ずっと一緒にいたもの。
幼い頃からずっと…ずっと…。
「ハインツ…」
「何だって…?」
「ハインツです。アウシュタイナーのお屋敷で勤めてくれていた、庭師のハインツです!」
白黒現像のおかげで陰影がはっきりと彼の精悍な表情を引き立てている写真を手に取り、その細部までじっくり視線を向けて見つめれば、間違いなく初めて出会った頃のハインツがそこにいる。
もっともこの写真と同じような笑顔を浮かべてくれるようになったのは、毎日庭園に通うようになってからしばらく経った頃だったけど、ハインツは同じように笑ってくれた。
幼い私のくだらなくてとりとめのない話も頷きながら聞いてくれた。
外に出れば必ず蝶ちょや鳥や花に夢中になってすぐにつまずいて擦り傷を作る私を、いつだって丁寧に手当してくれて、その度に優しく叱ってくれた。
お父様が亡くなったあの日…誰よりも悲しみ嘆いて…直接言葉を交わせないまま去っていったハインツが…まさか…。
そういえば彼は自分のことを話したがらなかった。
ただ一つ教えてくれたのは、彼が愛されて育ったことだけ。
小さい頃お母様は亡くなってしまったけれど、記憶に残っているのはいつでも温かく抱きしめてくれた優しい姿で、彼を育ててくれたお義父様は職人だから厳しかったけれど、誰よりも彼を理解して見守り一人前の庭師に仕立ててくれたと…ハインツは嬉しそうに話してくれたことがある。
ああ、でも。
「実の父親は別に家庭を持っていたから、お母様と自分を捨てたんだ、って…だからお母様が病で苦しんでいても助けてくれなかったって…」
酷く傷ついて、激しい憎悪を無理やり押さえ込んだような様子で吐き捨てたことがあった。
あの時はまだ彼の言う「実の父」が誰なのかなんてちっとも分からなかったし、事情を深く理解しようとすることもなかったけれど、彼の過去を知った今は違う。
疑問は二つ。
彼は誰を「実の父」だと思っていたのか。
さらに、実の父に捨てられたと思っていた彼が、どうしてお父様の元へやってきたのか。
そう思い浮かべた時、「あー…まさか…」というアルトゥール様の呟きが聞こえた。
嫌な予感がする、とアルトゥール様は苦々しく眉間にしわを寄せて額を抑え込む。
「これから言う事は完全に僕の推測だから、気分を悪くさせたらごめんね、エルフリーデ嬢」
「え?」
「一つ疑問があったんだよ、どうしても解せなかった事が」
「疑問?」
ガシガシと頭を掻きながら言う彼に、怪訝な顔でディー様が問う。
「事件の発端を考えて。アウシュタイナー伯が膨大な借金を背負わされたのはどうしてだった?」
「アウラー男爵に借用書を捏造されたからだろう」
「うん。その借用書にあったのは伯爵のサイン?」
「いや、伯爵家の紋章が入った印だ」
「それを持ち出したのは誰?」
「「!?」」
アルトゥール様の問いかけを聞いた瞬間、思わず息を飲んだ。
そうだ。
あの印はいつもお父様が管理していた。
書斎の引き出しに鍵をかけて、自分だけが使えるようにしまっていたはず。
事件以前にアウラー男爵が屋敷に来た事はない。
つまり、あの印を持ち出せたのは…。
「アウシュタイナーの屋敷にいた誰かが、あれを持ち出した…?」
たどり着いた仮説に愕然とする。
冷静に考えればおかしかった。
アウラー男爵にばかり気を取られていたから疑問に思うことさえなかったけど、あの印は誰もが持ち出せるものじゃない。
いつもお父様がしまっている場所を知っていて、尚且つそこの鍵の在り処も分かっていて、お屋敷にいるのが自然な上にお父様の部屋に入ることが出来る人物だけが、あの印を持ち出せる。
「可能性で言えば屋敷に勤める人たちと伯爵の家族だって有り得るよ。だけどハインツ以外の人物はアウラー男爵ともバルツァー侯爵とも一切繋がってないんだ。彼だけがこの事件に繋がってる。彼を捨てた実の父親について、彼は誰を想像していたと思う?彼は真実を知らない。カミラが侯爵の事を話すとは到底思えないし、かといって伯爵が自ら存在を隠していたなら彼女の口から伯爵のことが出るとも思えない。だとしたら、彼は捻じ曲がった解釈をしたんじゃないかな」
「伯爵が実の父親である、と…か。だから男爵と結託して伯爵を罠にはめたのか。エル、彼がそんな素振りを見せたことはあるか?例えば伯爵を恨んでいるような様子があったとか…」
ディー様の問いに、胃の奥の方から心臓がどくりと跳ね上がる。
そんな風に言われたら、頷くしかない。
もしもハインツがお父様を恨んでいたとしたら、お屋敷に来た頃の彼の様子に納得がいく。
それに彼はほとんどお父様やお母様と会話をしたことがない。
お父様はよく話しかけていたけれど、ハインツは短い返事をするばかりだった。
私への態度が変わっても、お父様たちに対する態度に変化はあまりない。
だけどあからさまにお父様を避けるようなこともなかったし、楯突くこともなかった。
お母様のために買われた花の苗だって、ハインツは丁寧に育ててあの庭を隅々まで手入れしてくれていたもの。
ハインツがお父様を恨んでいたかもしれないなんて信じられない。
信じたくない。
「…私…ごめんなさい、部屋に戻ります…」
「エル!」
「レオン、大変な思いをしながらたくさん調べてくれてありがとう」
「あ、いえ、自分は皆様のお役に立てればそれで」
「エル、待つんだ」
「…ごめんなさい」
「エル!」
私の体は自然と書斎を飛び出し、自分の部屋へ駆け込んでいた。
背後で扉が音を立てて閉まる。
咄嗟に後ろ手で鍵を締めて、重力に引き寄せられるように床に崩れ落ちた。
今だけは、全てを嘘にしてしまいたい。
真っ暗な部屋に、小さな嗚咽だけが響いていた。
続く
数日間、二つの国を旅し続けたレオンは、しかしきっちりとグレンチェックコートを身につけ、ディー様に促されて椅子に腰掛けると同時にそれを丁寧に脱ぐと、すぐに通常業務に就けるようにとバウムガルト家の紋章が胸に刺繍された深緑色のウエストコート姿になった。
さんざん歩き続けたはずの彼に疲労をうかがわせる表情はほとんどなく、クロスタイもスラックスも一筋のシワもないまま着こなされている。
さすがディー様とブルクハルトさんが見込んだ人物だ。
出発前より自信に満ちた輝きを浮かべて凛とした様子のレオンは手にしていた数枚の書類と一通の封筒をテーブルに並べた。
「カミラ・クリストフの足取りが掴めました。これを見てください。こちらは彼女の洗礼記録です。エアフォルクの最南端にある小さなヴァイヒという村で生まれた事が記されています。あそこは作物が豊富に収穫できる土地ですから、持て余すほど裕福ではないものの、孤児院では野菜や果物を栽培しながらのんびり穏やかに育てられたようです。現在も当時の院長はご健在で、カミラの事もよく覚えていらっしゃいました」
レオンはそう言うと彼女の洗礼記録をディー様に手渡し、ウエストコートの内ポケットから色あせたモノクロ写真を一枚取り出した。
そこには幼い子供達とひと組の夫婦が満面の笑みを浮かべて写っている。
「愛情いっぱいに育てられた子供たちは自立心も旺盛で、誰もが皆大人になったら院長夫妻に恩返しがしたいと考えていたようです。カミラも同様に夫妻を手助けすべく、首都で仕事に就こうとしていた矢先、ある日突然出されたバルツァー侯爵家の求人に喜んで申し込んだ結果…」
「音信不通になった?」
アトゥール様の瞳が鋭く細められる。
「はい。不審に思った院長が侯爵家へ問い合せても、彼女は来ていない、の一点張りだったそうです」
「だがブルーノの証言にあるように彼女は確かに侯爵家を訪ねている。その後カミラはどこへ行ったんだ?」
「フェアエンデルングです」
「やはりそうか。アウシュタイナー伯爵と出会ったのも?」
「その通りです。伯爵がエルフリーデ様に託されたあの写真は、フェアエンデルングにある古い写真屋で撮られたものでした。旅行中だった伯爵が偶然、フラフラと彷徨い歩いていたカミラを見つけ保護した事から親しくなったようです。彼女の身に起きた全てを知った伯爵は彼女をフェアエンデルングの知り合いの家へ預け、匿ったそうです」
「知り合いの家?」
「古くから懇意にしている庭師の家です。しばらくの間伯爵もそこで彼女の様子を見守っていたようですが、彼女自身が落ち着いたことと周囲の安全が確認出来たことで、伯爵はエアフォルクに戻られたとの事。その際カミラの育った孤児院に送るようにと、例の写真を撮りに来たと写真屋の主人が教えてくれました。その内の一枚を伯爵は持ち帰られたのでしょう」
「しかしフェアエンデルングにいたのなら、どうしてヨアヒムの洗礼記録はエアフォルクの教会で見つかったんだ?彼女はいつこっちに戻ってきた?」
「ヨアヒムが生まれてすぐです。危険は覚悟していたのでしょう。けれど何かにつけ彼女を心配し、面倒を見続けてくれていた伯爵にヨアヒムを見せに行きたいと、彼女はこちらへ戻ったそうです。そこでまだ洗礼を受けていなかったヨアヒムを連れ、彼の後見人として伯爵が洗礼に立ち会ったのです。カミラはその後再びフェアエンデルングに戻り彼を育てたようですが、数年後流行病に倒れ亡くなりました」
「ヨアヒムは?」
「庭師が養子として育て続けました。伯爵も援助を続けていたようですが、ヨアヒムにご自身の存在を明かしてはいません。あくまでも養父である庭師が全面的に世話していた事になっています」
「なるほど…」
「ただ庭師が亡くなった後、ヨアヒムがどこでどうしているのか…それは掴めませんでしたが、噂では彼もエアフォルクにいるのではないかと」
レオンは静かにそう告げた。
この数日でよくぞそこまで調べ上げたものだ。
三人の会話を聞きながら感心しきりの私は大人しく耳を傾けながら、邪魔をしないようにそっと二人分のお茶を追加で淹れ直し、レオンにも温かな紅茶を用意した。
彼は私が淹れたお茶に恐縮していたけれど、ディー様に促されたことで少し気分も和らいだのか、嬉しそうに口をつけてくれる。
それから彼はテーブルに置かれていた封筒に手を伸ばす。
「行方はわかっていませんが、こちらはヨアヒムの写真です。どうぞご覧ください」
「!?」
長い指先が中から取り出したそれに、私は目を見開いた。
無造作に短く切られた硬い髪、骨ばった輪郭と庭仕事で鍛えられた逞しい体は決して大柄ではないが筋肉質で力強く、屈託のないくしゃりとした優しい笑顔を浮かべている。
その全てにハッとした。
次の瞬間鮮明だったはずの視界は急速にぼやけ始める。
ぱたりとドレスに雫が落ちた。
「エル?」
「エルフリーデ様!?」
ディー様とレオンの慌てた声が聞こえたけれど、私の頬を伝うものを止めることなんて出来なかった。
だって…私、彼を知ってる。
よく知ってるわ。
ずっと一緒にいたもの。
幼い頃からずっと…ずっと…。
「ハインツ…」
「何だって…?」
「ハインツです。アウシュタイナーのお屋敷で勤めてくれていた、庭師のハインツです!」
白黒現像のおかげで陰影がはっきりと彼の精悍な表情を引き立てている写真を手に取り、その細部までじっくり視線を向けて見つめれば、間違いなく初めて出会った頃のハインツがそこにいる。
もっともこの写真と同じような笑顔を浮かべてくれるようになったのは、毎日庭園に通うようになってからしばらく経った頃だったけど、ハインツは同じように笑ってくれた。
幼い私のくだらなくてとりとめのない話も頷きながら聞いてくれた。
外に出れば必ず蝶ちょや鳥や花に夢中になってすぐにつまずいて擦り傷を作る私を、いつだって丁寧に手当してくれて、その度に優しく叱ってくれた。
お父様が亡くなったあの日…誰よりも悲しみ嘆いて…直接言葉を交わせないまま去っていったハインツが…まさか…。
そういえば彼は自分のことを話したがらなかった。
ただ一つ教えてくれたのは、彼が愛されて育ったことだけ。
小さい頃お母様は亡くなってしまったけれど、記憶に残っているのはいつでも温かく抱きしめてくれた優しい姿で、彼を育ててくれたお義父様は職人だから厳しかったけれど、誰よりも彼を理解して見守り一人前の庭師に仕立ててくれたと…ハインツは嬉しそうに話してくれたことがある。
ああ、でも。
「実の父親は別に家庭を持っていたから、お母様と自分を捨てたんだ、って…だからお母様が病で苦しんでいても助けてくれなかったって…」
酷く傷ついて、激しい憎悪を無理やり押さえ込んだような様子で吐き捨てたことがあった。
あの時はまだ彼の言う「実の父」が誰なのかなんてちっとも分からなかったし、事情を深く理解しようとすることもなかったけれど、彼の過去を知った今は違う。
疑問は二つ。
彼は誰を「実の父」だと思っていたのか。
さらに、実の父に捨てられたと思っていた彼が、どうしてお父様の元へやってきたのか。
そう思い浮かべた時、「あー…まさか…」というアルトゥール様の呟きが聞こえた。
嫌な予感がする、とアルトゥール様は苦々しく眉間にしわを寄せて額を抑え込む。
「これから言う事は完全に僕の推測だから、気分を悪くさせたらごめんね、エルフリーデ嬢」
「え?」
「一つ疑問があったんだよ、どうしても解せなかった事が」
「疑問?」
ガシガシと頭を掻きながら言う彼に、怪訝な顔でディー様が問う。
「事件の発端を考えて。アウシュタイナー伯が膨大な借金を背負わされたのはどうしてだった?」
「アウラー男爵に借用書を捏造されたからだろう」
「うん。その借用書にあったのは伯爵のサイン?」
「いや、伯爵家の紋章が入った印だ」
「それを持ち出したのは誰?」
「「!?」」
アルトゥール様の問いかけを聞いた瞬間、思わず息を飲んだ。
そうだ。
あの印はいつもお父様が管理していた。
書斎の引き出しに鍵をかけて、自分だけが使えるようにしまっていたはず。
事件以前にアウラー男爵が屋敷に来た事はない。
つまり、あの印を持ち出せたのは…。
「アウシュタイナーの屋敷にいた誰かが、あれを持ち出した…?」
たどり着いた仮説に愕然とする。
冷静に考えればおかしかった。
アウラー男爵にばかり気を取られていたから疑問に思うことさえなかったけど、あの印は誰もが持ち出せるものじゃない。
いつもお父様がしまっている場所を知っていて、尚且つそこの鍵の在り処も分かっていて、お屋敷にいるのが自然な上にお父様の部屋に入ることが出来る人物だけが、あの印を持ち出せる。
「可能性で言えば屋敷に勤める人たちと伯爵の家族だって有り得るよ。だけどハインツ以外の人物はアウラー男爵ともバルツァー侯爵とも一切繋がってないんだ。彼だけがこの事件に繋がってる。彼を捨てた実の父親について、彼は誰を想像していたと思う?彼は真実を知らない。カミラが侯爵の事を話すとは到底思えないし、かといって伯爵が自ら存在を隠していたなら彼女の口から伯爵のことが出るとも思えない。だとしたら、彼は捻じ曲がった解釈をしたんじゃないかな」
「伯爵が実の父親である、と…か。だから男爵と結託して伯爵を罠にはめたのか。エル、彼がそんな素振りを見せたことはあるか?例えば伯爵を恨んでいるような様子があったとか…」
ディー様の問いに、胃の奥の方から心臓がどくりと跳ね上がる。
そんな風に言われたら、頷くしかない。
もしもハインツがお父様を恨んでいたとしたら、お屋敷に来た頃の彼の様子に納得がいく。
それに彼はほとんどお父様やお母様と会話をしたことがない。
お父様はよく話しかけていたけれど、ハインツは短い返事をするばかりだった。
私への態度が変わっても、お父様たちに対する態度に変化はあまりない。
だけどあからさまにお父様を避けるようなこともなかったし、楯突くこともなかった。
お母様のために買われた花の苗だって、ハインツは丁寧に育ててあの庭を隅々まで手入れしてくれていたもの。
ハインツがお父様を恨んでいたかもしれないなんて信じられない。
信じたくない。
「…私…ごめんなさい、部屋に戻ります…」
「エル!」
「レオン、大変な思いをしながらたくさん調べてくれてありがとう」
「あ、いえ、自分は皆様のお役に立てればそれで」
「エル、待つんだ」
「…ごめんなさい」
「エル!」
私の体は自然と書斎を飛び出し、自分の部屋へ駆け込んでいた。
背後で扉が音を立てて閉まる。
咄嗟に後ろ手で鍵を締めて、重力に引き寄せられるように床に崩れ落ちた。
今だけは、全てを嘘にしてしまいたい。
真っ暗な部屋に、小さな嗚咽だけが響いていた。
続く