伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.24 (ディー視点)



 家族同然の人間を疑うことがどれほど苦しい事か、それは想像を絶するものだと思う。
 所詮私たちは他人だからどんな推測も出来てしまうのだ。
 そして彼女もまた、頭では全てを理解しているのだろう。
 けれど心が否定している。
 だから今は冷静に気持ちを整理する時間が必要なのだ。
 相手が大切な存在ならば尚更、信じたい気持ちと、消去法によって導き出された一つの可能性は否定できないものでそれ故向き合わなければならないと思う気持ちが、真正面からぶつかり合っている。
 飛び出していった彼女を責める人間は誰もいない。
「すまない、アル」
 敢えて嫌な役を買って出てくれた彼にそう言えば、アルは「僕こそごめん」と申し訳なさそうに小さく呟いた。
「君の口から言われるよりまだマシだと思ったんだけど、傷つかないわけないよね。僕たちだって疑わしい人間はたくさんいると思ってた。ただヨアヒムと彼が繋がってしまったから可能性を一つに絞れただけで…」
「最初から容疑者候補になんて入っているはずがないからな」
「頭と心は別物だから、納得するのには時間と「誰か」が必要だよ。君の出番だ」
「ああ、分かってる。ひとまず今夜は私たちも休もう。レオンも歩き通しで疲れただろう?湯に浸かってからゆっくり休んでくれ」
「ありがとうございます」
「僕も客間で休ませてもらうよ。じゃあ」
 書斎を後にする二人を見送る。
 気付けばあと数時間で朝がやってくる時間だ。
 地平線近くの空が既に柔らかな光の幕で夜を覆い隠そうとしている。
 こんな時間まで起きていればすぐ睡魔が襲ってくるはずなのだが、今は完全に意識が覚醒していた。
 真夜中に暴れたせいなのか、それとも。
 自然と動き出した足に任せてみれば、たどり着いたのは言うまでもなくエルの部屋の前だった。
 扉越しに微かな嗚咽が聞こえる。
 朝が来るのと同時にエルの悲しみも消えてくれればいい。
 心底そう願うが、簡単にいかないことなど百も承知だ。
 多分エルは扉に背を預けて小さく蹲っているのだろう。
 声にならない声が喉から漏れてしゃくりあげている。
 どう、言えばいいか。
 何と言えばいい?
 具体的にアウシュタイナー家の使用人たちとどんな風に過ごしてきたのか詳しく聞いたことはないが、言葉の端々に彼女が心許していた事は感じて取れたし、あちらの屋敷の話題が出れば横顔を嬉しそうに綻ばせてもいた。
 そんな彼女だからこの屋敷でも同様に使用人たちを家族のように大切にしてくれている。
 常に感謝の思いを言葉や行動に表し、誰に対しても偉ぶることなく相手を尊重する。
 だからゼルダやブルクハルトをはじめ、この屋敷の者たちは皆エルを殊更大切に思っているのだ。
 恐らく幼い頃から周囲にいる人間を大切にするよう育てられたのだろう。
 その大切な人物が直接ではないにしろ、エルから父親を奪ったとしたら…。
 悲しみや怒りなどという言葉で表せるほど単純なものではない。
 けれど。
 このまま一人で泣かせたくない。
 放っておけるわけがないんだ。
 彼女は私にとって唯一の存在なのだから。
「エル」
 木製扉の向こう側にいるであろう彼女にそっと呼びかけてみる。
 すると
「…」
 不意に泣き声が止んだ。
 こちらの様子を窺っているのだろう、彼女の気配は微動だにしない。
「無理にここを開けろとは言わない。そのままでいい。ただ、一人にしたくないんだ。私もここにいる。だから…いつでもおいで。抱きしめる腕が必要になったら、いつでも」
「…」
 出来ることなら今すぐにでも抱きしめたい。
 泣くなら私の腕の中で泣けばいい。
 私に抱きしめられながら気が済むまで泣きじゃくればいい。
 本音を言えば我侭ばかりが心から溢れてくるが、エルが望んでくれるまで待とう。
 一晩中でもここにいるつもりだ。
 こうして同じ屋敷にいるのに、どうして貴女を一人にできると思う?
 一番辛い時に傍にいられないのなら、一緒にいる意味がないじゃないか。
 だから。
「このままでいいから、一緒にいよう」
 静かに告げた。
 途端、扉に触れていたはずの掌がふっと感触を失う。
 互いを隔てていた扉は小さな摩擦音を立てて内側に開かれ、次の瞬間、軽い衝撃と重みを胸に感じた。
 華奢な腕が胴を締め付けている。
 伏せられて摺り寄せられた頬と、柔らかな薔薇の香りが漂う髪。
 震えてしゃくりあげる小さな体をぎゅっと抱きしめ返せば、素直な子供のように縋るエルの感情が手に取るように感じられた。
 彼女から扉を開けて私を求めてくれたことに安堵と喜びを感じる。
 側にいていい、彼女の溢れる感情や心の叫びを受け止めていいのだと、そう許されているのだから。
 泣いていい。
 ありったけの感情を感じるままにぶつけていい。
 教えて欲しいんだ、貴女が今感じていることを。
「全て吐き出していいよ、悲しみも苦しみも…何もかも」
「…っ、ディー様…私…っ」
 頼りなげな背中をポンポンと叩いてあやせば、堰を切ったようにか細い悲鳴を上げてエルは泣き崩れた。





 散々涙を流して瞳を真っ赤に染め、白い瞼を腫れさせた後、泣き疲れたエルを抱き上げてベッドまで運んで包み込むように背後から包み込んだ。
 エルは大人しくこちらに身を委ね、力の抜けた様子でしばらくの間どことは言えない一点を呆然と見つめている。
 しっとりした髪をなぞり、綺麗に切り揃えられた前髪を撫でてみる。
 鳩尾あたりから深く息が吐き出されて、エルは前に回された私の腕をきゅっと抱きしめ返してきた。
「私、ハインツが大好きでした」
「そうか。いささか聞き捨てならないな」
 冗談めかして嫉妬混じりに言うと、エルが小さく笑う。
「だってハインツは家族だもの」
「兄弟みたいなものか」
「ええ。いつもハインツのいるお庭に押しかけてたの。花の名前を聞いたり本を読んだり、たまに木登りして叱られたわ。お転婆なのは構わないけど大怪我したらどうするんだ、って…傷ついて苦しむ姿は見たくないって」
「同感だな」
 活発な姿はこれまでの印象からすると意外だ。
 けれど楽しげに木登りする幼いエルの様子が目に浮かぶ。
 そして令嬢なのだからやめろと言わず、危ないからやめてくれと叱るハインツとは気が合いそうだと思ってしまった。
 体裁などどうでもいい。
 大切なのは彼女自身だ。
 エルが好奇心のまま行動したら、私でも同じように叱るだろう。
 愛する人が傷つく姿を見るのは何より辛い。
 出来うる限りあらゆる苦痛から遠ざけたいと願ってしまう。
 恐らくハインツも同じだったはずだ。
 彼女を大切に思うからこそ。
 …ああ、そうか…これは家族と同じくらい近く、愛しい存在だからこその願いだ。
 でも少し違う。
 何がどう、とはっきり説明できるわけではないけれど、その違いは心で感じている。
 イリーネを危険から遠ざけたいと思うし、苦しみや悲しみなど感じて欲しくはない。
 もしイリーネがそうした感情を味わうことになったら、一刻も早く救い出したいと思うし癒されて欲しいと願うだろう。
 けれど真っ先に手を差し伸べるのはアルだ。
 彼の腕でイリーネは救われる。
 だから私はアルに任せるだろう。
 そして彼らを見守る。
 でもエルに対しては違う。
 目の前で悲しみ苦しむ彼女を見て、誰かに任せることなんてできない。
 ほかの誰でもない自分が真っ先に抱きしめて、荒れ狂う感情ごと全て彼女を受け止めたいと思う。
 悲鳴を上げて傷つく心を癒すのは自分でありたいと切実に願ってしまう。
 愛しているから。
 家族を愛するのとは違う。
 ハインツが抱いた思いがもしも私と同じなら…。
 そう考え至って、腕の中でまだ少し、すん、と泣いた余韻を残しているエルを見つめる。
 エルにとってハインツは兄のような人。
 でもハインツにとってエルは妹ではない。
 そうだとしたら。
 愛する人が悲しむと分かっていて、彼女の大切な人を貶めるだろうか。
 まして命を奪う手助けなど出来るだろうか。
「…エル、もしかすると真実はもう少し複雑かもしれない」
「どういう、ことですか…?」
「ハインツは貴女を愛していたからだ」
「え…?」
 大きく見開かれた赤い瞳がこちら向く。
 だから顎に手を添えて軽く口付けた。
「正直妬けるが、仕方ないな。彼にとって貴女は妹ではないよ」
「でも、ハインツはいなくなってしまったわ。お父様が亡くなった時、彼は涙をこぼして悼んでくれたのに…誰にも何も言わず、姿を消していたんです」
「それが愛しているが故だったとしたら?」
「どうして?」
「彼が勘違いであっても本当に伯爵を恨んでいただけだとしたら、何故涙を流す必要があるんだ?何故伯爵の死を悼む?パフォーマンスなどは有り得ない。彼の本当の想いがそこにあったんじゃないのか?」
「本当の想い…?」
「好き好んで自ら愛する人を悲しませる人間などいない。仮にハインツが本当に伯爵の印を持ち出したとして、それが彼の意思だけで行われたかどうか、それはまだ分からないんだ。真実はもう少し入り組んでいると思う」
 そっと告げるとエルはじっと考え込むような仕草で顔を俯けた。
 私も黙って彼女の答えを待つことにする。
 このまま真実の欠片を放っておけば、エルはまた大切なものを失うことになる。
 例えハインツが事件に関与していたとしても、彼が憎しみに支配されてしたことではないと分かれば、少しはエルにとって救いになるはずだ。
 貴女が望むなら、私はいくらでも手を貸すよ。
 心の中で呟いてそっとエルの左手を取った。
 細い指先が握り返してくる。
「ハインツに会いたい。会って真実を確かめたい」
「分かった。貴女の願いを叶えよう」
 そうして掌を重ね合わせた時、ほんの少し浮かんだ彼女の微笑みに安堵を覚えたのだった。






 続く
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