伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.25
短い眠りから目覚めさせたのは、不意に感じた白い朝日だった。
鈍い痛みを覚えながら重い瞼を押し開ける。
そこには未だぐっすりと眠り込んだままの端正な横顔。
いつも明確な意思を伝える力強い瞳は閉じられていて、緩くカーブした睫毛がきれいに重なり合っている。
一見硬く見える黒髪は、指先で撫でるとふわりとしていた。
筋の通った鼻と、その先にある形のいい唇。
視線でなぞってふと思い出した。
”帰ってきたら、優しいキスをくれ”
ディー様はそう言っていた。
帰ってきた彼の姿を見た瞬間、心の底から湧き出すような嬉しさと安堵ですっかり忘れていたからまだ約束は果たされていない。
昨夜の間に何度かキスを交わしたけれど、それは全てディー様からの口づけだった。
望んでいたのは私の方かも。
優しく口づけられて、すっかり安心してしまったのだから。
しかも今はこうして隣りに彼がいる。
次第に明らかになっていく真実はあまりにも残酷な可能性を私たちに示していた。
おかげで酷くショックを受けて、疲れ果ててしまうほどに泣きじゃくった。
そんな私を温かく包み込んでくれたのはやっぱりディー様で、きっとあのまま二人で眠ってしまったのだろう。
ディー様は夜着の上にきっちりナイトガウンを羽織ったままだし、私はドレスを着込んだままだ。
随分と寝づらい格好なのに、ディー様はくうくうと気持ちよさそうに寝息を立てている。
薄く開いた唇が色っぽい。
「約束、でしたね」
小さく囁いてそこに自分の唇を重ねてみた。
ほんの数時間で体温が下がったのだろう。
彼の唇は少しだけひんやりしていた。
僅かな身動ぎが伝わったのかしら。
枕代わりに敷かれていた彼の逞しい腕が何かを探すように空を掻いて、私の体に触れるとぐっと抱き寄せる。
はずみで厚い胸板にぽすんと頬を寄せた。
穏やかな鼓動が聞こえる。
嵐のような夜の後に迎えた静かな朝。
荒れ狂う大波のような感情が渦巻いた心も、今は静かに凪いでいる。
ディー様はいつだってそう。
一番必要な時にこの大きな手を差し伸べてくれる。
強引に踏み込んでくるのではなく、側にいて、私がどうしたいのかきちんと聞いて選ばせてくれる。
答えを待っていてくれる。
そんな優しさに触れたら、甘えずにいられない。
結局昨夜も夜遅くまで奔走してくれたディー様に甘えてしまった。
疲れている彼に気を遣わせて、その上腕枕まで!
ああ、私、本当になんて自分勝手なのかしら。
いい加減ディー様に甘えてばかりじゃダメよ。
もっとしっかりしなくちゃ。
でもどうしましょう。
彼の腕は眠っていても力強くて、抱きしめられる力が弱まる気配はない。
せめてこのままディー様にはゆっくり休んで欲しいのに、私を抱きしめていたら疲れてしまうわ。
無理に動けば起こしてしまうし、どうしたものかしら。
と、必死に解決策を模索していたら
「もうしばらくこのままでいてくれないか?」
不意に彼の声がした。
「ディー様?」
そっと見上げれば、彼の青い瞳が穏やかにこちらを見つめている。
「ようやく一緒に眠れたんだ。もう少しこのままでいたい」
「体、痛くありませんか?私重いのに」
「心地いい重みだ。ちゃんと貴女を抱きしめてるんだと実感できる。実に幸せだ」
「本当?」
「もちろん。エルは?まだ目が赤いな。心は痛むか?」
長い指が優しく髪を撫でてくれる。
ディー様の問いかけに私は首を横に振った。
全く痛まないといえば嘘になる。
でも心はもう悲鳴をあげてはいない。
「ディー様が側にいてくれたから、もう大丈夫です」
あなたが刺だらけで傷ついた心を、柔らかく包み込んでくれたから。
お父様とハインツのことを思うと辛い。
まだ見ぬ真実がどんな形で待ち受けているのか、それを考えると怖い。
けれど私は独りじゃない。
ディー様がいてくれる。
だからまた一歩先に進み出せる。
「ありがとう、ディー様」
そうしてもう一度彼に口付ければ、嬉しげに細められた瞳が優しく私を映し出した。
夜の間に解消されなかった疲れと、蓄積された疲れの威力は凄まじい。
まどろみながら温かな朝を迎えたはずが、気付けば空の高い位置に太陽が登ってしまうほど時間が経っていて、再び二人で眠ってしまったのだと理解できたのはしばらくぼうっとした後の事だった。
すっかり意識を覚醒させたディー様は、いつもの様に真っ直ぐ背筋を伸ばして新しい深緑色のベストを着込んで支度を整えていく。
いつの間に着替えを持ってきたんだろう。
ぼんやり彼の様子を眺めていたら、ふと視線がぶつかり合う。
ディー様はようやく起き上がった私に気付くとすぐに歩み寄って抱きしめてくれた。
「おはようエル。目の具合はどうだ?少しの間冷やしてみたんだが」
言われて気付く。
そういえば瞼が軽い。
一度起きた時に感じたはれぼったさもだいぶ違う。
両手の指先を揃えて瞼を抑えてみると、そこだけまだひんやりしていた。
「あまり触らない方がいい。まだ赤いからな。ウサギみたいだ」
「ウサギ?」
「白いウサギを見たことはあるかい?」
「ええ」
「まさにエルだな。白く柔らかな体はエルの心とそっくりだし、今は瞳もそっくりだ。何より、ウサギは寂しくなると死んでしまうらしい。私のウサギはそうならないように、いつも側にいてやりたくなる」
「ではそうしてください。あなたのウサギはいつもお帰りを待っていますから」
「留守番のご褒美にニンジンでも買って帰ってこよう」
「まあ!」
彼の温かな腕に抱かれて、それこそウサギがじゃれあうように笑い合う。
額を合わせたり頬を寄せたり、啄むような口付けを重ねたり。
ディー様は一際優しく私を甘やかしてくれた。
動物たちが互いの毛皮で温め合うような、そんな優しい時間。
おかげで今だけは辛い現実も息を潜めている。
そんな甘い時間も、扉を叩く軽いノック音で終わりを告げた。
ブルクハルトさんがしびれを切らしてディー様を呼びに来たらしい。
珍しく忌々しげな表情を浮かべると、彼はそっとベッドから降りて立ち上がった。
「すっかり忘れていたよ」
「何をですか?」
「彼らに盛大な誤解をされていたんだった」
それこそ盛大なため息をついてディー様は言う。
「誤解?」
すぐには何のことだかさっぱり分からず首を傾げると、ディー様が困ったように苦笑した。
一体何を誤解されたのかしら。
私もベッドを降りて扉に歩み寄る。
「イリーネに叱られたんだ。エルお姉様がウエディングドレスを着られなくなったらどうしてくれるんだ、って」
「どうしてウエディングドレスの話に?」
「ブルクハルトには式までに揺り籠は必要か、と聞かれた」
「揺り籠?」
「ゼルダはとにかく落ち着けと皆に言っていたけれど、様子を見て医者を呼びますか?と聞いてきた」
「医者?」
「瞳を輝かせながら話を聞いていた侍女や執事たちはまるで指示を待つ忠犬のようだったな。すぐにでも全ての準備に取り掛かりそうな勢いだったが、アルの一言で助かった」
「どんな?」
「ディーにそんな甲斐性があるわけないでしょ。だそうだ」
「…一体何のお話をなさってるんですか?」
「私だって一通りの知識くらいある。コウノトリの話など信じていないぞ」
コウノトリ?
って…まさか。
ようやく辻褄が合う。
みんなが誤解したっていうのはもしかして、一晩中私とディー様が一緒だったから?
つまり、その、私たちが、コウノトリから授かってしまうような行為に及んでいたと、そういう、こと?
「な…ッ」
何てこと!!
理解した途端恥ずかしすぎて勢いよく彼に背を向ける。
と、ポンポンと柔らかく頭を撫でられた。
ん?
「まあ彼らの望みを叶えて、ハインツに会いに行くのも良いアイディアだとは思う。エルも私も大変幸せで充実した日々を送っている、と説得力が出るからな」
「!?」
瞬間的に沸騰した熱で顔中が熱い。
けれど対照的にディー様は涼しい顔で楽しげにこちらを見つめていて。
ああもう、またからかわれたんだわ。
気付いた時には再び彼の腕の中に閉じ込められていた。
とくん、と伝わってくるディー様の鼓動。
早鐘を打つみたいな私の鼓動。
女性が苦手だなんてもう過去の話ね。
ディー様はいつだって甘くて優しくて、そして時々
「イジワル」
なの。
拗ねたように呟く私を笑ってあやすのも得意げだ。
でもね、いつか二人の間に新しい命が芽生えたら…。
それはとっても素敵な事だって思う。
だから一刻も早く神様に誓い合える日が来ますように。
誰もが皆、幸せになれる日が来ますように。
温かな腕の中で祈るのは、同じくらい温かな未来だった。
続く
短い眠りから目覚めさせたのは、不意に感じた白い朝日だった。
鈍い痛みを覚えながら重い瞼を押し開ける。
そこには未だぐっすりと眠り込んだままの端正な横顔。
いつも明確な意思を伝える力強い瞳は閉じられていて、緩くカーブした睫毛がきれいに重なり合っている。
一見硬く見える黒髪は、指先で撫でるとふわりとしていた。
筋の通った鼻と、その先にある形のいい唇。
視線でなぞってふと思い出した。
”帰ってきたら、優しいキスをくれ”
ディー様はそう言っていた。
帰ってきた彼の姿を見た瞬間、心の底から湧き出すような嬉しさと安堵ですっかり忘れていたからまだ約束は果たされていない。
昨夜の間に何度かキスを交わしたけれど、それは全てディー様からの口づけだった。
望んでいたのは私の方かも。
優しく口づけられて、すっかり安心してしまったのだから。
しかも今はこうして隣りに彼がいる。
次第に明らかになっていく真実はあまりにも残酷な可能性を私たちに示していた。
おかげで酷くショックを受けて、疲れ果ててしまうほどに泣きじゃくった。
そんな私を温かく包み込んでくれたのはやっぱりディー様で、きっとあのまま二人で眠ってしまったのだろう。
ディー様は夜着の上にきっちりナイトガウンを羽織ったままだし、私はドレスを着込んだままだ。
随分と寝づらい格好なのに、ディー様はくうくうと気持ちよさそうに寝息を立てている。
薄く開いた唇が色っぽい。
「約束、でしたね」
小さく囁いてそこに自分の唇を重ねてみた。
ほんの数時間で体温が下がったのだろう。
彼の唇は少しだけひんやりしていた。
僅かな身動ぎが伝わったのかしら。
枕代わりに敷かれていた彼の逞しい腕が何かを探すように空を掻いて、私の体に触れるとぐっと抱き寄せる。
はずみで厚い胸板にぽすんと頬を寄せた。
穏やかな鼓動が聞こえる。
嵐のような夜の後に迎えた静かな朝。
荒れ狂う大波のような感情が渦巻いた心も、今は静かに凪いでいる。
ディー様はいつだってそう。
一番必要な時にこの大きな手を差し伸べてくれる。
強引に踏み込んでくるのではなく、側にいて、私がどうしたいのかきちんと聞いて選ばせてくれる。
答えを待っていてくれる。
そんな優しさに触れたら、甘えずにいられない。
結局昨夜も夜遅くまで奔走してくれたディー様に甘えてしまった。
疲れている彼に気を遣わせて、その上腕枕まで!
ああ、私、本当になんて自分勝手なのかしら。
いい加減ディー様に甘えてばかりじゃダメよ。
もっとしっかりしなくちゃ。
でもどうしましょう。
彼の腕は眠っていても力強くて、抱きしめられる力が弱まる気配はない。
せめてこのままディー様にはゆっくり休んで欲しいのに、私を抱きしめていたら疲れてしまうわ。
無理に動けば起こしてしまうし、どうしたものかしら。
と、必死に解決策を模索していたら
「もうしばらくこのままでいてくれないか?」
不意に彼の声がした。
「ディー様?」
そっと見上げれば、彼の青い瞳が穏やかにこちらを見つめている。
「ようやく一緒に眠れたんだ。もう少しこのままでいたい」
「体、痛くありませんか?私重いのに」
「心地いい重みだ。ちゃんと貴女を抱きしめてるんだと実感できる。実に幸せだ」
「本当?」
「もちろん。エルは?まだ目が赤いな。心は痛むか?」
長い指が優しく髪を撫でてくれる。
ディー様の問いかけに私は首を横に振った。
全く痛まないといえば嘘になる。
でも心はもう悲鳴をあげてはいない。
「ディー様が側にいてくれたから、もう大丈夫です」
あなたが刺だらけで傷ついた心を、柔らかく包み込んでくれたから。
お父様とハインツのことを思うと辛い。
まだ見ぬ真実がどんな形で待ち受けているのか、それを考えると怖い。
けれど私は独りじゃない。
ディー様がいてくれる。
だからまた一歩先に進み出せる。
「ありがとう、ディー様」
そうしてもう一度彼に口付ければ、嬉しげに細められた瞳が優しく私を映し出した。
夜の間に解消されなかった疲れと、蓄積された疲れの威力は凄まじい。
まどろみながら温かな朝を迎えたはずが、気付けば空の高い位置に太陽が登ってしまうほど時間が経っていて、再び二人で眠ってしまったのだと理解できたのはしばらくぼうっとした後の事だった。
すっかり意識を覚醒させたディー様は、いつもの様に真っ直ぐ背筋を伸ばして新しい深緑色のベストを着込んで支度を整えていく。
いつの間に着替えを持ってきたんだろう。
ぼんやり彼の様子を眺めていたら、ふと視線がぶつかり合う。
ディー様はようやく起き上がった私に気付くとすぐに歩み寄って抱きしめてくれた。
「おはようエル。目の具合はどうだ?少しの間冷やしてみたんだが」
言われて気付く。
そういえば瞼が軽い。
一度起きた時に感じたはれぼったさもだいぶ違う。
両手の指先を揃えて瞼を抑えてみると、そこだけまだひんやりしていた。
「あまり触らない方がいい。まだ赤いからな。ウサギみたいだ」
「ウサギ?」
「白いウサギを見たことはあるかい?」
「ええ」
「まさにエルだな。白く柔らかな体はエルの心とそっくりだし、今は瞳もそっくりだ。何より、ウサギは寂しくなると死んでしまうらしい。私のウサギはそうならないように、いつも側にいてやりたくなる」
「ではそうしてください。あなたのウサギはいつもお帰りを待っていますから」
「留守番のご褒美にニンジンでも買って帰ってこよう」
「まあ!」
彼の温かな腕に抱かれて、それこそウサギがじゃれあうように笑い合う。
額を合わせたり頬を寄せたり、啄むような口付けを重ねたり。
ディー様は一際優しく私を甘やかしてくれた。
動物たちが互いの毛皮で温め合うような、そんな優しい時間。
おかげで今だけは辛い現実も息を潜めている。
そんな甘い時間も、扉を叩く軽いノック音で終わりを告げた。
ブルクハルトさんがしびれを切らしてディー様を呼びに来たらしい。
珍しく忌々しげな表情を浮かべると、彼はそっとベッドから降りて立ち上がった。
「すっかり忘れていたよ」
「何をですか?」
「彼らに盛大な誤解をされていたんだった」
それこそ盛大なため息をついてディー様は言う。
「誤解?」
すぐには何のことだかさっぱり分からず首を傾げると、ディー様が困ったように苦笑した。
一体何を誤解されたのかしら。
私もベッドを降りて扉に歩み寄る。
「イリーネに叱られたんだ。エルお姉様がウエディングドレスを着られなくなったらどうしてくれるんだ、って」
「どうしてウエディングドレスの話に?」
「ブルクハルトには式までに揺り籠は必要か、と聞かれた」
「揺り籠?」
「ゼルダはとにかく落ち着けと皆に言っていたけれど、様子を見て医者を呼びますか?と聞いてきた」
「医者?」
「瞳を輝かせながら話を聞いていた侍女や執事たちはまるで指示を待つ忠犬のようだったな。すぐにでも全ての準備に取り掛かりそうな勢いだったが、アルの一言で助かった」
「どんな?」
「ディーにそんな甲斐性があるわけないでしょ。だそうだ」
「…一体何のお話をなさってるんですか?」
「私だって一通りの知識くらいある。コウノトリの話など信じていないぞ」
コウノトリ?
って…まさか。
ようやく辻褄が合う。
みんなが誤解したっていうのはもしかして、一晩中私とディー様が一緒だったから?
つまり、その、私たちが、コウノトリから授かってしまうような行為に及んでいたと、そういう、こと?
「な…ッ」
何てこと!!
理解した途端恥ずかしすぎて勢いよく彼に背を向ける。
と、ポンポンと柔らかく頭を撫でられた。
ん?
「まあ彼らの望みを叶えて、ハインツに会いに行くのも良いアイディアだとは思う。エルも私も大変幸せで充実した日々を送っている、と説得力が出るからな」
「!?」
瞬間的に沸騰した熱で顔中が熱い。
けれど対照的にディー様は涼しい顔で楽しげにこちらを見つめていて。
ああもう、またからかわれたんだわ。
気付いた時には再び彼の腕の中に閉じ込められていた。
とくん、と伝わってくるディー様の鼓動。
早鐘を打つみたいな私の鼓動。
女性が苦手だなんてもう過去の話ね。
ディー様はいつだって甘くて優しくて、そして時々
「イジワル」
なの。
拗ねたように呟く私を笑ってあやすのも得意げだ。
でもね、いつか二人の間に新しい命が芽生えたら…。
それはとっても素敵な事だって思う。
だから一刻も早く神様に誓い合える日が来ますように。
誰もが皆、幸せになれる日が来ますように。
温かな腕の中で祈るのは、同じくらい温かな未来だった。
続く