伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.26
あの白い頬を何度思い浮かべただろう。
あの煌めく瞳を何度夢見ただろう。
あの柔らかな黒髪も、楽しげに動く唇も、小さな手も、頼りなげな脚も、何度思い返しても二度と近付くことは出来ない。
これは神に与えられた当然の罰だ。
彼女から最愛の父を奪う事になってしまった、浅はかな自分へのささやかな罰だ。
次に会える時にはもう一度目を合わせて話をしたい。
許してくれなくてもいいから、ただ、あなたを愛していると。
愚かな自分などどれほど激しく罵られてもいい。
それでももう一度だけでいい。
あなたに会いたい。
ここ数日では珍しく誰もいない書斎で一人、ディー様は一枚の書面をじっと見つめていた。
眉間に寄せられた皺は無意識のものだろう。
午前中いっぱいかかって昨夜捕縛した男たちを牢へ連行し、彼らから詳細を聞き出したディー様は、午後になるとまだ陽も高いうちにお屋敷に帰っていらした。
けれど、それからずっと書斎にこもったままだ。
心配になってお茶を持ってきたのはいいけれど、彼はカップに口をつけることもなく、まだ何か考え込んでいる。
陶器で造られた滑らかなティーポットとお菓子を用意して、ふと彼を見る。
すると不意に視線が重なって、ディー様はふわりと表情を緩めた。
「ありがとう、エル」
「今日はアールグレイですよ。ミルクはどのくらい入れますか?」
「そうだな、少し多めに」
「はい」
言われた通りにミルクを注いでかき混ぜると、くるくると綺麗なマーブル模様が浮かんだ。
視界の端で、さっきまで彼が見ていたはずの書面がこちらに差し出される。
「これは…」
お父様の印とアウラー男爵の印が押された借用書。
そう言えば以前ディー様はこう言っていた。
少々強引な手を使って婚約を白紙に戻し、借金を返済してきた、と。
「あの時そこに書かれている金額をアウラー家の執事長に押し付けたんだ。同時にその借用書を押収した。更に陛下直筆の書状を突きつけて、男爵とエルの婚約は無効だと告げた。納得できなければいつでもこちらに来い、決闘も辞さないと言い残してきたが…直接私と対決する勇気はなかったようだ」
穏やかな口調と、裏腹な真実。
ええと、陛下直筆の書状に決闘?
相手の執事長にほんの少しだけ同情しかけてしまう。
主のいない間、やってきたのは泣く子も黙るバウムガルト公爵本人で、しかも大量の金貨を支払って真偽の分からない借金を一括返済した後、さらにダメ押しの証拠まで突きつけて主の婚約を白紙に戻されたのでは、主に会わせる顔もなかっただろう。
かといって主でさえ覆すことのできない権力に楯突いたところでどうしようもないのだけれど。
まさか陛下まで巻き込んでいたなんて。
こんな紙切れ一枚のためにお父様は命を落とし、お母様は見ていられないほど悲嘆に暮れて亡くなっていった。
しかもそこには大好きだったハインツが絡んでいて…。
本当にハインツが私を想っていてくれたとしたら、お父様の印を持ち出した時どんな気持ちだったのかしら。
お父様が憎かった?どうしても許せなかった?
死んでしまえばいいと思っていた?
でもあんなに優しかったハインツがそんな風にお父様に殺意を抱いていたのかしら。
殺したいほど憎んでいる相手から託された薔薇の苗を、あんな風に美しく咲かせたりするかしら。
それにもし、もし本当にお父様に殺意を抱いていたのなら、男爵の手を借りなくとも殺すチャンスはいつだってあったはず。
この印だって…。
ん…。
何か、変だ。
紙に押印された紋章をじっと見つめてみる。
月桂樹の葉を両側に配置し、その中央に知性の象徴であるフクロウが施されたアウシュタイナー家の紋章。
フクロウの瞳には小さく当代の伯爵の名前が彫られるのだけれど…。
「ない。お父様の名前がない!」
「え?どういうことなんだ?エル」
「ないんです、本来フクロウの目にはお父様の名前が彫られているはずなんです。でもここに押印されたフクロウの目は何も彫られていません」
「ではこの印は偽物なのか?」
「紋様自体は本物そっくりです。でもアウシュタイナー家は必ずこの紋章に当主の名を刻むのが習わしで、お父様も伯爵位を継いだ時に自分の名を刻んだ印を作っているんです。いつもそれを使っていたはず」
「…という事は、本物はまだアウシュタイナーの屋敷に?」
「!?」
はっとして顔を上げると、そこには鋭い瞳でこちらを見つめるディー様がいた。
希望に満ちた力強い視線ではっきりと頷いてくれる。
「決め手だ。誰もが認めざるを得ない証拠になる」
「例え押印された印を男爵が捨ててしまったとしても、借用書には偽物の印があった証拠が残っているし、ここには男爵のサインと印がある」
「そして伯爵のサインはない。借用書が捏造されたものであることは確かだ」
「この件に関して、男爵を追い詰められる?」
「ああ。男爵を連行すればあの男の事だ、保身を優先して、借金の件に関与した人間の名前を簡単に吐くだろう。恐らく自分の罪をなすりつけるだろうが、真相はこちらで暴いていけばいい。男爵を捕まえられれば、必ずどこかでバルツァー侯爵やモーリッツ伯爵との関係も露呈する。筆頭公爵も動かざるを得ないだろう」
そう言い終わるか終らないかのうちにディー様はすっと立ち上がり、コートハンガーに掛けられていた上着を着ると、内ポケットに借用書を忍ばせた。
真っ白な手袋をつけてシルクハットをかぶる。
私はそっと彼のシャツの首元に着けられたレースの胸飾りに手を伸ばし、プリーツを際立たせながら生地を整えた。
完璧な紳士の出来上がりだ。
見上げればディー様の青い瞳が間近にある。
ディー様は私の額に小さくキスして、それから楽しげな視線で
「エルも行くか?」
と問いかけてくれた。
私も?
「これからアウシュタイナーの屋敷へ行く。本物の印を見つけたいんだ。前回はハシバミという目印があったから伯爵の遺産に辿り着いたが、今回はそう簡単にいかないかもしれないだろう?」
もしかしたら私も何か役に立てるかもしれないってこと?
思いがけない誘いに心が浮足立つ。
「本当に、いいんですか?足手まといにならない?」
「なるものか。それにこれまでとは状況が変わったんだ、男爵達はもはや脅威ではないよ。どんな企みがあったとしても捻じ伏せられる。ただ、万が一男爵と対面することになったらと考えると少し心配だな」
「どうして?」
「男爵に対する恐怖心がエルの心の奥に残っているんじゃないかと思ったんだ」
ドクン
言われた途端、心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
瞬間的に脳裏に浮かんだのはアウラー男爵の、あの絡みつくような邪悪な瞳。
無意識に感じた恐怖に瞳を閉じれば、ディー様の強い腕が私を抱き寄せてくれた。
そうね、多分まだ怖い。
思い浮かべただけでこんなに動揺してしまう。
ましてお父様を殺した真犯人が男爵だと分かった今は、恐怖だけでなく怒りも込み上げてくる。
彼を前にしたら感情が一気に膨れ上がってしまうかもしれない。
でも。
今の私は一人じゃない。
守ってくれる人がいる。
抱きしめてくれる腕がある。
見守ってくれる優しい瞳がすぐそばで見つめてくれる。
私をここまで導いてくれた人たちがいる。
だから、例え何が起こっても立ち止まってなんかいられない。
あと少しで真実に辿り着けるのだから。
「大丈夫です、ディー様。私なら、大丈夫。あなたがいてくれるもの」
「そうか。それなら支度しておいで」
「はい!」
自室へ戻る私の足取りは今までで一番軽やかだった。
慣れた砂利道を馬車に揺られて通り抜けていく。
数か月ぶりの領地はちっとも変わらない。
緑が豊かで、人々の柔和な笑顔がこちらに向けられる。
バウムガルト家の紋章が入った馬車に気付くと皆が大きく手を振ってくれた。
あちらこちらに紫陽花が咲き始め、歩道沿いには綺麗な水仙の黄色い花びらが青空に向かって誇らしげに開いている。
お屋敷を離れた日と同じ風景に嬉しくなる。
ここで暮らす人たちも以前と変わらない穏やかさと温かさで迎えてくれるなんて、何て素敵な事なんだろう。
そして見えてきたお屋敷の門を馬車が潜り抜けると、車窓から見えたのは立派に咲き誇った色とりどりの薔薇たちだった。
鮮やかに咲いて、迷路のような垣根を彩っている。
その垣根もきれいに刈り揃えられていた。
信じられない。
目の前に広がる光景に息を呑んだ。
だってあの庭が、こんなに明るく輝いているなんて。
今でも同じ美しさを保っているなんて。
「ディー様、これは…」
「思い出の詰まった場所だと聞いていたからな、薔薇を育てるのが得意な庭師がいつも世話をしてくれている」
「驚くのはまだ早いよ、エルフリーデ嬢」
「え?」
「では屋敷へ入ろうか」
アルトゥール様まで楽しげにそう告げて、三人で馬車を降りた。
手を繋いだままディー様は私を促すと、それに合わせて衛兵の二人が扉をゆっくり開いてくれる。
埃ひとつなく掃除されたエントランスに、見覚えるのある執事服を纏った老紳士と白い侍女服に水色のエプロンをした温かな瞳の女性が、そっと笑みを浮かべてこちらを見ていた。
ゆっくりとお辞儀して歩み寄ってくれる。
驚きすぎて声も出ない。
代わりに視界が歪んで何が何だか分からなくなるほど涙があふれてきた。
嘘…これは夢じゃない…?
あの頃と同じ、私の大好きな家。
いつも私を迎えてくれた優しい笑顔と温かな腕。
「クラウス!ゲルタ!!」
思い切り駆け寄って抱き着けば、二人から穏やかなお日様の匂いがした。
すぐさまクラウスが抱き留めてくれて、側からゲルタが涙を拭ってくれる。
薄い水色だったはずのエプロンが、濃い水色に変わってしまうのも気にせずに。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「随分と長いお出かけでしたね。さあ、お顔をよくお見せください。お変わりはありませんか?」
「二人は?二人とも元気だった?どう過ごしていたの?いつからここに?」
「私たちは元気ですよ、この通りです」
「全ては公爵様のおかげです。私たちの忠誠はアウシュタイナー家にのみ存在するもの。他家へ奉公するなど考えられなかったのです」
静かにクラウスが言う。
隣でゲルタは浮かんだ涙を私にしたのと同じようにエプロンで拭って、クラウスの言葉に強く頷いていた。
「どうすればお嬢様とお屋敷を助けられるか、クラウス様と相談しておりました。そこへ公爵様がいらしたんです。おかげですぐにこちらへ戻れたんですよ」
「聞けば既にお嬢様は助けられた後で、お屋敷も買い戻された後。私たちはいつでもお嬢様をお迎えできるようお屋敷を任せていただいていたのです」
それじゃあ全部ディー様が…。
振り返ればどこか照れくさそうにしているディー様と、隣で目配せしているアルトゥール様。
ディー様は私と視線が合うと、小さく何度か頷いた。
お父様とお母様の薔薇園も、幼い頃からずっと過ごしてきたこのお屋敷も、家族のように大切なクラウスとゲルタも、全てディー様が元通りにしてくれたのね…。
どんな贈り物よりも嬉しい。
そしてどこまでも優しさに満ち溢れた、魔法使いのようなディー様に胸が痛いほど愛しさを感じる。
「ディー様、本当にありがとうございます…!!」
「いいんだ。私は貴女の喜ぶ顔が見たいだけだから」
横顔を僅かに赤く染めた彼は、とびきり艶やかな微笑みを浮かべた。
続く
あの白い頬を何度思い浮かべただろう。
あの煌めく瞳を何度夢見ただろう。
あの柔らかな黒髪も、楽しげに動く唇も、小さな手も、頼りなげな脚も、何度思い返しても二度と近付くことは出来ない。
これは神に与えられた当然の罰だ。
彼女から最愛の父を奪う事になってしまった、浅はかな自分へのささやかな罰だ。
次に会える時にはもう一度目を合わせて話をしたい。
許してくれなくてもいいから、ただ、あなたを愛していると。
愚かな自分などどれほど激しく罵られてもいい。
それでももう一度だけでいい。
あなたに会いたい。
ここ数日では珍しく誰もいない書斎で一人、ディー様は一枚の書面をじっと見つめていた。
眉間に寄せられた皺は無意識のものだろう。
午前中いっぱいかかって昨夜捕縛した男たちを牢へ連行し、彼らから詳細を聞き出したディー様は、午後になるとまだ陽も高いうちにお屋敷に帰っていらした。
けれど、それからずっと書斎にこもったままだ。
心配になってお茶を持ってきたのはいいけれど、彼はカップに口をつけることもなく、まだ何か考え込んでいる。
陶器で造られた滑らかなティーポットとお菓子を用意して、ふと彼を見る。
すると不意に視線が重なって、ディー様はふわりと表情を緩めた。
「ありがとう、エル」
「今日はアールグレイですよ。ミルクはどのくらい入れますか?」
「そうだな、少し多めに」
「はい」
言われた通りにミルクを注いでかき混ぜると、くるくると綺麗なマーブル模様が浮かんだ。
視界の端で、さっきまで彼が見ていたはずの書面がこちらに差し出される。
「これは…」
お父様の印とアウラー男爵の印が押された借用書。
そう言えば以前ディー様はこう言っていた。
少々強引な手を使って婚約を白紙に戻し、借金を返済してきた、と。
「あの時そこに書かれている金額をアウラー家の執事長に押し付けたんだ。同時にその借用書を押収した。更に陛下直筆の書状を突きつけて、男爵とエルの婚約は無効だと告げた。納得できなければいつでもこちらに来い、決闘も辞さないと言い残してきたが…直接私と対決する勇気はなかったようだ」
穏やかな口調と、裏腹な真実。
ええと、陛下直筆の書状に決闘?
相手の執事長にほんの少しだけ同情しかけてしまう。
主のいない間、やってきたのは泣く子も黙るバウムガルト公爵本人で、しかも大量の金貨を支払って真偽の分からない借金を一括返済した後、さらにダメ押しの証拠まで突きつけて主の婚約を白紙に戻されたのでは、主に会わせる顔もなかっただろう。
かといって主でさえ覆すことのできない権力に楯突いたところでどうしようもないのだけれど。
まさか陛下まで巻き込んでいたなんて。
こんな紙切れ一枚のためにお父様は命を落とし、お母様は見ていられないほど悲嘆に暮れて亡くなっていった。
しかもそこには大好きだったハインツが絡んでいて…。
本当にハインツが私を想っていてくれたとしたら、お父様の印を持ち出した時どんな気持ちだったのかしら。
お父様が憎かった?どうしても許せなかった?
死んでしまえばいいと思っていた?
でもあんなに優しかったハインツがそんな風にお父様に殺意を抱いていたのかしら。
殺したいほど憎んでいる相手から託された薔薇の苗を、あんな風に美しく咲かせたりするかしら。
それにもし、もし本当にお父様に殺意を抱いていたのなら、男爵の手を借りなくとも殺すチャンスはいつだってあったはず。
この印だって…。
ん…。
何か、変だ。
紙に押印された紋章をじっと見つめてみる。
月桂樹の葉を両側に配置し、その中央に知性の象徴であるフクロウが施されたアウシュタイナー家の紋章。
フクロウの瞳には小さく当代の伯爵の名前が彫られるのだけれど…。
「ない。お父様の名前がない!」
「え?どういうことなんだ?エル」
「ないんです、本来フクロウの目にはお父様の名前が彫られているはずなんです。でもここに押印されたフクロウの目は何も彫られていません」
「ではこの印は偽物なのか?」
「紋様自体は本物そっくりです。でもアウシュタイナー家は必ずこの紋章に当主の名を刻むのが習わしで、お父様も伯爵位を継いだ時に自分の名を刻んだ印を作っているんです。いつもそれを使っていたはず」
「…という事は、本物はまだアウシュタイナーの屋敷に?」
「!?」
はっとして顔を上げると、そこには鋭い瞳でこちらを見つめるディー様がいた。
希望に満ちた力強い視線ではっきりと頷いてくれる。
「決め手だ。誰もが認めざるを得ない証拠になる」
「例え押印された印を男爵が捨ててしまったとしても、借用書には偽物の印があった証拠が残っているし、ここには男爵のサインと印がある」
「そして伯爵のサインはない。借用書が捏造されたものであることは確かだ」
「この件に関して、男爵を追い詰められる?」
「ああ。男爵を連行すればあの男の事だ、保身を優先して、借金の件に関与した人間の名前を簡単に吐くだろう。恐らく自分の罪をなすりつけるだろうが、真相はこちらで暴いていけばいい。男爵を捕まえられれば、必ずどこかでバルツァー侯爵やモーリッツ伯爵との関係も露呈する。筆頭公爵も動かざるを得ないだろう」
そう言い終わるか終らないかのうちにディー様はすっと立ち上がり、コートハンガーに掛けられていた上着を着ると、内ポケットに借用書を忍ばせた。
真っ白な手袋をつけてシルクハットをかぶる。
私はそっと彼のシャツの首元に着けられたレースの胸飾りに手を伸ばし、プリーツを際立たせながら生地を整えた。
完璧な紳士の出来上がりだ。
見上げればディー様の青い瞳が間近にある。
ディー様は私の額に小さくキスして、それから楽しげな視線で
「エルも行くか?」
と問いかけてくれた。
私も?
「これからアウシュタイナーの屋敷へ行く。本物の印を見つけたいんだ。前回はハシバミという目印があったから伯爵の遺産に辿り着いたが、今回はそう簡単にいかないかもしれないだろう?」
もしかしたら私も何か役に立てるかもしれないってこと?
思いがけない誘いに心が浮足立つ。
「本当に、いいんですか?足手まといにならない?」
「なるものか。それにこれまでとは状況が変わったんだ、男爵達はもはや脅威ではないよ。どんな企みがあったとしても捻じ伏せられる。ただ、万が一男爵と対面することになったらと考えると少し心配だな」
「どうして?」
「男爵に対する恐怖心がエルの心の奥に残っているんじゃないかと思ったんだ」
ドクン
言われた途端、心臓が嫌な音を立てて跳ね上がる。
瞬間的に脳裏に浮かんだのはアウラー男爵の、あの絡みつくような邪悪な瞳。
無意識に感じた恐怖に瞳を閉じれば、ディー様の強い腕が私を抱き寄せてくれた。
そうね、多分まだ怖い。
思い浮かべただけでこんなに動揺してしまう。
ましてお父様を殺した真犯人が男爵だと分かった今は、恐怖だけでなく怒りも込み上げてくる。
彼を前にしたら感情が一気に膨れ上がってしまうかもしれない。
でも。
今の私は一人じゃない。
守ってくれる人がいる。
抱きしめてくれる腕がある。
見守ってくれる優しい瞳がすぐそばで見つめてくれる。
私をここまで導いてくれた人たちがいる。
だから、例え何が起こっても立ち止まってなんかいられない。
あと少しで真実に辿り着けるのだから。
「大丈夫です、ディー様。私なら、大丈夫。あなたがいてくれるもの」
「そうか。それなら支度しておいで」
「はい!」
自室へ戻る私の足取りは今までで一番軽やかだった。
慣れた砂利道を馬車に揺られて通り抜けていく。
数か月ぶりの領地はちっとも変わらない。
緑が豊かで、人々の柔和な笑顔がこちらに向けられる。
バウムガルト家の紋章が入った馬車に気付くと皆が大きく手を振ってくれた。
あちらこちらに紫陽花が咲き始め、歩道沿いには綺麗な水仙の黄色い花びらが青空に向かって誇らしげに開いている。
お屋敷を離れた日と同じ風景に嬉しくなる。
ここで暮らす人たちも以前と変わらない穏やかさと温かさで迎えてくれるなんて、何て素敵な事なんだろう。
そして見えてきたお屋敷の門を馬車が潜り抜けると、車窓から見えたのは立派に咲き誇った色とりどりの薔薇たちだった。
鮮やかに咲いて、迷路のような垣根を彩っている。
その垣根もきれいに刈り揃えられていた。
信じられない。
目の前に広がる光景に息を呑んだ。
だってあの庭が、こんなに明るく輝いているなんて。
今でも同じ美しさを保っているなんて。
「ディー様、これは…」
「思い出の詰まった場所だと聞いていたからな、薔薇を育てるのが得意な庭師がいつも世話をしてくれている」
「驚くのはまだ早いよ、エルフリーデ嬢」
「え?」
「では屋敷へ入ろうか」
アルトゥール様まで楽しげにそう告げて、三人で馬車を降りた。
手を繋いだままディー様は私を促すと、それに合わせて衛兵の二人が扉をゆっくり開いてくれる。
埃ひとつなく掃除されたエントランスに、見覚えるのある執事服を纏った老紳士と白い侍女服に水色のエプロンをした温かな瞳の女性が、そっと笑みを浮かべてこちらを見ていた。
ゆっくりとお辞儀して歩み寄ってくれる。
驚きすぎて声も出ない。
代わりに視界が歪んで何が何だか分からなくなるほど涙があふれてきた。
嘘…これは夢じゃない…?
あの頃と同じ、私の大好きな家。
いつも私を迎えてくれた優しい笑顔と温かな腕。
「クラウス!ゲルタ!!」
思い切り駆け寄って抱き着けば、二人から穏やかなお日様の匂いがした。
すぐさまクラウスが抱き留めてくれて、側からゲルタが涙を拭ってくれる。
薄い水色だったはずのエプロンが、濃い水色に変わってしまうのも気にせずに。
「お嬢様、お帰りなさいませ」
「随分と長いお出かけでしたね。さあ、お顔をよくお見せください。お変わりはありませんか?」
「二人は?二人とも元気だった?どう過ごしていたの?いつからここに?」
「私たちは元気ですよ、この通りです」
「全ては公爵様のおかげです。私たちの忠誠はアウシュタイナー家にのみ存在するもの。他家へ奉公するなど考えられなかったのです」
静かにクラウスが言う。
隣でゲルタは浮かんだ涙を私にしたのと同じようにエプロンで拭って、クラウスの言葉に強く頷いていた。
「どうすればお嬢様とお屋敷を助けられるか、クラウス様と相談しておりました。そこへ公爵様がいらしたんです。おかげですぐにこちらへ戻れたんですよ」
「聞けば既にお嬢様は助けられた後で、お屋敷も買い戻された後。私たちはいつでもお嬢様をお迎えできるようお屋敷を任せていただいていたのです」
それじゃあ全部ディー様が…。
振り返ればどこか照れくさそうにしているディー様と、隣で目配せしているアルトゥール様。
ディー様は私と視線が合うと、小さく何度か頷いた。
お父様とお母様の薔薇園も、幼い頃からずっと過ごしてきたこのお屋敷も、家族のように大切なクラウスとゲルタも、全てディー様が元通りにしてくれたのね…。
どんな贈り物よりも嬉しい。
そしてどこまでも優しさに満ち溢れた、魔法使いのようなディー様に胸が痛いほど愛しさを感じる。
「ディー様、本当にありがとうございます…!!」
「いいんだ。私は貴女の喜ぶ顔が見たいだけだから」
横顔を僅かに赤く染めた彼は、とびきり艶やかな微笑みを浮かべた。
続く