伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.27(ディー視点)後編
しばらくした後、隅々まで懐かしい実家を探索し終えたエルは、満足げに私たちのいるダイニングへやってきた。
何やらいたく感激したようで、眩しいくらい満面の笑みを浮かべて頬を紅潮させていた。
「すごいわ!どのお部屋も以前と同じ。お父様の書斎も、お母様のお部屋も、どこもかしこも懐かしい香りがしたの。まるで二人がそこにいるみたいで…クラウスもゲルタもありがとう」
「礼には及びません。お屋敷中が私たちにとって大切な場所ですから、当然のことをしてきたまでですよ」
「時折風を通しておりましたが、きっと部屋自体が主の香りを覚えているのでしょう。どこもかしこも当時のままになっておりますよ」
「きっとお嬢様方がお探しのものも見つかるはずです」
穏やかにクラウスが告げると、エルは「そのはずなんだけど…」と眉間に皺を寄せてため息を零した。
探索中に目当てのものを探してきたのだろうか。
エルは困惑したように首を傾げた。
「お父様の書斎にはなかったの。いつも使っていたアウシュタイナー家の印よ」
「ああ、それでしたら書斎にはございません」
「どこにあるの?」
「こちらでございます。公爵様方もどうぞ」
クラウスは丁寧に腕を伸ばして私たちを促した。
きびきびとした足取りで地下室への階段を下りていく。
私たちは不思議そうにクラウスの後を歩くエルの後をついていくことにした。
地下への階段は石造りで、コツコツという靴の音が奥の方へ反射して響いていく。
「旦那様はいつも地下の金庫から取り出してお使いになっていました。しかも鍵を私にお預けになって」
白い手袋をした手が執事服のポケットを探ると、すぐに金色の小さな鍵が顔をのぞかせる。
「鍵は一つ?」
エルが問うと、クラウスはゆっくりと頷いた。
「はい。旦那様は領主としてご自分の正義を貫こうとなさっていました。ですから、旦那様の判断が誤りだと感じた時は決して鍵を開けてはならないと、たった一つの鍵を私にお預けくださったのです」
もちろん旦那様が間違った判断をお下しになる事はありませんでしたが、とクラウスは付け足す。
それから地下室の壁にあつらえられた金庫から、伯爵の名が刻まれた本物の印を取り出してくれた。
借用書に押印されたものと比べると、確かに紋章自体は精巧に彫られていて本物と見分けがつかないほどの出来だが、刻銘の有無によって真偽は明白だ。
「この印は誰でも目に触れることが可能だったのか?」
「いえ、そのような事はほとんどございません。奥様やお嬢様にお見せになることはあっても、おいそれと他人の目に触れるようなことは…」
「じゃあハインツはどうやってこの印を?家族やあなた以外が見ることのない印なら、紋章を真似て偽物を作るなんて不可能だよ」
アルが問うと
「…今、何と…?」
穏やかだったクラウスの瞳が驚きを隠せずに大きく見開かれる。
私はそっと捏造された借用書を彼に差し出した。
「ハインツがこの印を模造した、と?」
「恐らく」
「しかし旦那様はご家族と私たち二人以外を執務中に書斎に入れたことはございません。さらに書類は全て厳正に管理なさっていましたから、机に放置したまま席を離れられることもありませんでした。ハインツがこれを目にすることはなかったはずです」
「それじゃあ誰がこれを?」
エルは戸惑いを含んだ視線で私を見上げた。
唯一アウラー男爵とバルツァー侯爵の二人と繋がったハインツが印を持ち出した犯人でないのなら、一体誰がこの偽物を作り得たのか。
私にもアルにも、そしてもちろんエルにも心当たりはない。
可能性があるならば伯爵の家族とクラウス、そしてゲルタに絞られるが…確率はゼロに等しいだろう。
そしてそれは次の瞬間クラウスに告げられた言葉によって確証に変わり、新たな可能性が浮上することになった。
「これは私の憶測ですが、こちらの印をお作りになられたのは旦那様ではないでしょうか」
「お父様が?」
「はい。実は…旦那様は数年前からアウラー男爵の悪事を法で裁こうとなさっていたようなのです」
「つまり男爵の事を調べていたのか」
「左様でございます。あまりに危険を伴うと仰って、詳細をお話になる事はありませんでしたが、どうも元は随分前からバルツァー侯爵についてお調べになっていたようです。そのうち男爵に辿り着き、さらにアウシュタイナーの領地内でも男爵の被害に遭う者が出たようで、旦那様は大変憤っておられました」
「そんな…お父様が二人について調べていたなんて…」
「旦那様はご家族も私たち使用人も決して巻き込みたくないと仰っておいででしたから、お嬢様がご存じないのは当然です。ご自分をお責めにならないでください」
愕然として言葉を失うエルの肩をクラウスが慰めるように抱きしめる。
灯台下暗しとはこの事だろうか。
しかし屋敷中を探しても男爵や侯爵にまつわる書類はどこにもなかった。
几帳面な伯爵がどこにも記さずにいるとは考えにくい。
必ず集めた証拠や聞き出した情報をメモしているはず。
「伯爵が集めた証拠資料は一体どこへ?」
「それは私にも分かりませんが、旦那様がお亡くなりになる数日前、夜中に旦那様がハインツとお二人でいるのをお見かけしております。旦那様はハインツを特に気にかけていらっしゃいましたから、何か大切なお話をしていらしたのかもしれません」
「待って。それってどこで見かけたの?」
はっと顔を上げたエルが問うと、クラウスは静かに「庭師小屋でございます」と答えた。
それを受けてエルは何かを察したらしい。
「ディー様、私やっぱりハインツを信じたい」
一点の曇りもない真っ直ぐな視線が私を見つめる。
「お父様はハシバミの下に金貨だけでなく、ハインツの本名を書いた写真を残してくれたわ。それがどうしてなのかずっと分からなかったんです。でもお父様がハインツの正体を知っていたなら話は別。金貨だけじゃなく、ハインツも私を助けてくれるっていう暗示だったなら?」
「だがハインツは姿を消している。それはどう説明する?」
彼を信じたいエルの気持ちは分かる。
伯爵が偽物の印を用意したのなら、ハインツが伯爵を陥れたという仮説も崩れるし、借用書の捏造にも伯爵が関わった可能性さえ出てくる。
あらゆる点で矛盾と疑問が生じて、真実は再び迷路の向うだ。
ハインツ自身を知らない私たちには、彼がどこまで信用に足る人物か判断のしようがない。
盲目的に彼を信じれば、またエルが傷付く。
あんな風に嘆き悲しんで打ちひしがれる姿など二度と見たくない。
そう思って口にした言葉を、目の前にいるエルはよく噛み締めるように思案していた。
しかし、再び向けられた瞳は変わらず凛としていて、確証さえ抱いているように見えた。
「多分…ハインツがお父様を本当の父親だと誤解していたのは確かだと思います。だから最初はきっと恨んでいたでしょう。当然、家族であるお母様や私との距離も置いていた。復讐したい気持ちもあったかもしれません。でも次第に彼の中に迷いが生じた。何度もチャンスはあったのに実行に移さなかったのはそのせいです」
「それならどうしてハインツはアウラー男爵と接触したんだ?」
「分かりません。どんなやり取りがあったのか私には想像もつかないけど、ハインツは男爵とつながって、お父様の借金話に関わった。でもそれをお父様に話したんだと思うんです。もしくはお父様に気付かれたのかもしれない。ずっと彼を援助してきたお父様なら、彼が来てすぐに正体を知っていたはずだもの。だから真実を話したんじゃないかしら。お父様はハインツも危険に巻き込みたくなかったはず。既に巻き込まれているなら守ろうと思ったはずです。だから偽物の印を用意して、わざと無効な借用書を作らせたんです。それを逆手にとって男爵を追い詰めるために」
「今の私たちと同じように決定的な証拠を手に入れたというわけか」
「しかもそれで大人しく罪を認めるような奴じゃない。バックにはバルツァー侯爵がいて、その後ろにはモーリッツ伯爵もいる。気が大きくなっているアウラーは逆上してアウシュタイナー伯爵を殺害した…ってところかな?」
アルの言葉通りなら、アウシュタイナー伯爵は一人で大きすぎる敵に挑んでいたことになる。
男爵による咄嗟の犯行かもしれないし、あらかじめ伯爵殺害を命じられていたのかもしれない。
どちらにせよ真実を知ったハインツは恐らく伯爵に協力したのだろう。
そしてわざわざ人目を忍んで庭師小屋で二人があっていたのなら…。
「掻き集められた証拠資料は小屋の中かもしれないな」
そうエルに言えば、彼女はたちまち瞳を輝かせた。
「信じてくださるんですか?」
「ああ。貴女が信じているなら、私も彼を信じよう」
そこまでエルに信用されている彼に嫉妬を覚えなくもないが、兄同様に慕っていたなら仕方ない。
これ以上意地悪な問答を続ければ、真実が傷つけるより先に私がエルを傷つけてしまう。
心配する気持ちがどんなに強くとも、自分で彼女を悲しませては本末転倒過ぎるというものだ。
隣ではアルも彼女の言葉に納得している。
静かにやり取りを見守っていたクラウスも安堵の表情を浮かべている。
ならば小屋を確かめるのが先決だ。
仮に何も見つからなければその時に次の可能性を探ればいい。
「エル、庭師小屋に案内してくれ」
「はい!」
彼女は力強く頷いて、花びらのようなドレスの裾を翻した。
続く
しばらくした後、隅々まで懐かしい実家を探索し終えたエルは、満足げに私たちのいるダイニングへやってきた。
何やらいたく感激したようで、眩しいくらい満面の笑みを浮かべて頬を紅潮させていた。
「すごいわ!どのお部屋も以前と同じ。お父様の書斎も、お母様のお部屋も、どこもかしこも懐かしい香りがしたの。まるで二人がそこにいるみたいで…クラウスもゲルタもありがとう」
「礼には及びません。お屋敷中が私たちにとって大切な場所ですから、当然のことをしてきたまでですよ」
「時折風を通しておりましたが、きっと部屋自体が主の香りを覚えているのでしょう。どこもかしこも当時のままになっておりますよ」
「きっとお嬢様方がお探しのものも見つかるはずです」
穏やかにクラウスが告げると、エルは「そのはずなんだけど…」と眉間に皺を寄せてため息を零した。
探索中に目当てのものを探してきたのだろうか。
エルは困惑したように首を傾げた。
「お父様の書斎にはなかったの。いつも使っていたアウシュタイナー家の印よ」
「ああ、それでしたら書斎にはございません」
「どこにあるの?」
「こちらでございます。公爵様方もどうぞ」
クラウスは丁寧に腕を伸ばして私たちを促した。
きびきびとした足取りで地下室への階段を下りていく。
私たちは不思議そうにクラウスの後を歩くエルの後をついていくことにした。
地下への階段は石造りで、コツコツという靴の音が奥の方へ反射して響いていく。
「旦那様はいつも地下の金庫から取り出してお使いになっていました。しかも鍵を私にお預けになって」
白い手袋をした手が執事服のポケットを探ると、すぐに金色の小さな鍵が顔をのぞかせる。
「鍵は一つ?」
エルが問うと、クラウスはゆっくりと頷いた。
「はい。旦那様は領主としてご自分の正義を貫こうとなさっていました。ですから、旦那様の判断が誤りだと感じた時は決して鍵を開けてはならないと、たった一つの鍵を私にお預けくださったのです」
もちろん旦那様が間違った判断をお下しになる事はありませんでしたが、とクラウスは付け足す。
それから地下室の壁にあつらえられた金庫から、伯爵の名が刻まれた本物の印を取り出してくれた。
借用書に押印されたものと比べると、確かに紋章自体は精巧に彫られていて本物と見分けがつかないほどの出来だが、刻銘の有無によって真偽は明白だ。
「この印は誰でも目に触れることが可能だったのか?」
「いえ、そのような事はほとんどございません。奥様やお嬢様にお見せになることはあっても、おいそれと他人の目に触れるようなことは…」
「じゃあハインツはどうやってこの印を?家族やあなた以外が見ることのない印なら、紋章を真似て偽物を作るなんて不可能だよ」
アルが問うと
「…今、何と…?」
穏やかだったクラウスの瞳が驚きを隠せずに大きく見開かれる。
私はそっと捏造された借用書を彼に差し出した。
「ハインツがこの印を模造した、と?」
「恐らく」
「しかし旦那様はご家族と私たち二人以外を執務中に書斎に入れたことはございません。さらに書類は全て厳正に管理なさっていましたから、机に放置したまま席を離れられることもありませんでした。ハインツがこれを目にすることはなかったはずです」
「それじゃあ誰がこれを?」
エルは戸惑いを含んだ視線で私を見上げた。
唯一アウラー男爵とバルツァー侯爵の二人と繋がったハインツが印を持ち出した犯人でないのなら、一体誰がこの偽物を作り得たのか。
私にもアルにも、そしてもちろんエルにも心当たりはない。
可能性があるならば伯爵の家族とクラウス、そしてゲルタに絞られるが…確率はゼロに等しいだろう。
そしてそれは次の瞬間クラウスに告げられた言葉によって確証に変わり、新たな可能性が浮上することになった。
「これは私の憶測ですが、こちらの印をお作りになられたのは旦那様ではないでしょうか」
「お父様が?」
「はい。実は…旦那様は数年前からアウラー男爵の悪事を法で裁こうとなさっていたようなのです」
「つまり男爵の事を調べていたのか」
「左様でございます。あまりに危険を伴うと仰って、詳細をお話になる事はありませんでしたが、どうも元は随分前からバルツァー侯爵についてお調べになっていたようです。そのうち男爵に辿り着き、さらにアウシュタイナーの領地内でも男爵の被害に遭う者が出たようで、旦那様は大変憤っておられました」
「そんな…お父様が二人について調べていたなんて…」
「旦那様はご家族も私たち使用人も決して巻き込みたくないと仰っておいででしたから、お嬢様がご存じないのは当然です。ご自分をお責めにならないでください」
愕然として言葉を失うエルの肩をクラウスが慰めるように抱きしめる。
灯台下暗しとはこの事だろうか。
しかし屋敷中を探しても男爵や侯爵にまつわる書類はどこにもなかった。
几帳面な伯爵がどこにも記さずにいるとは考えにくい。
必ず集めた証拠や聞き出した情報をメモしているはず。
「伯爵が集めた証拠資料は一体どこへ?」
「それは私にも分かりませんが、旦那様がお亡くなりになる数日前、夜中に旦那様がハインツとお二人でいるのをお見かけしております。旦那様はハインツを特に気にかけていらっしゃいましたから、何か大切なお話をしていらしたのかもしれません」
「待って。それってどこで見かけたの?」
はっと顔を上げたエルが問うと、クラウスは静かに「庭師小屋でございます」と答えた。
それを受けてエルは何かを察したらしい。
「ディー様、私やっぱりハインツを信じたい」
一点の曇りもない真っ直ぐな視線が私を見つめる。
「お父様はハシバミの下に金貨だけでなく、ハインツの本名を書いた写真を残してくれたわ。それがどうしてなのかずっと分からなかったんです。でもお父様がハインツの正体を知っていたなら話は別。金貨だけじゃなく、ハインツも私を助けてくれるっていう暗示だったなら?」
「だがハインツは姿を消している。それはどう説明する?」
彼を信じたいエルの気持ちは分かる。
伯爵が偽物の印を用意したのなら、ハインツが伯爵を陥れたという仮説も崩れるし、借用書の捏造にも伯爵が関わった可能性さえ出てくる。
あらゆる点で矛盾と疑問が生じて、真実は再び迷路の向うだ。
ハインツ自身を知らない私たちには、彼がどこまで信用に足る人物か判断のしようがない。
盲目的に彼を信じれば、またエルが傷付く。
あんな風に嘆き悲しんで打ちひしがれる姿など二度と見たくない。
そう思って口にした言葉を、目の前にいるエルはよく噛み締めるように思案していた。
しかし、再び向けられた瞳は変わらず凛としていて、確証さえ抱いているように見えた。
「多分…ハインツがお父様を本当の父親だと誤解していたのは確かだと思います。だから最初はきっと恨んでいたでしょう。当然、家族であるお母様や私との距離も置いていた。復讐したい気持ちもあったかもしれません。でも次第に彼の中に迷いが生じた。何度もチャンスはあったのに実行に移さなかったのはそのせいです」
「それならどうしてハインツはアウラー男爵と接触したんだ?」
「分かりません。どんなやり取りがあったのか私には想像もつかないけど、ハインツは男爵とつながって、お父様の借金話に関わった。でもそれをお父様に話したんだと思うんです。もしくはお父様に気付かれたのかもしれない。ずっと彼を援助してきたお父様なら、彼が来てすぐに正体を知っていたはずだもの。だから真実を話したんじゃないかしら。お父様はハインツも危険に巻き込みたくなかったはず。既に巻き込まれているなら守ろうと思ったはずです。だから偽物の印を用意して、わざと無効な借用書を作らせたんです。それを逆手にとって男爵を追い詰めるために」
「今の私たちと同じように決定的な証拠を手に入れたというわけか」
「しかもそれで大人しく罪を認めるような奴じゃない。バックにはバルツァー侯爵がいて、その後ろにはモーリッツ伯爵もいる。気が大きくなっているアウラーは逆上してアウシュタイナー伯爵を殺害した…ってところかな?」
アルの言葉通りなら、アウシュタイナー伯爵は一人で大きすぎる敵に挑んでいたことになる。
男爵による咄嗟の犯行かもしれないし、あらかじめ伯爵殺害を命じられていたのかもしれない。
どちらにせよ真実を知ったハインツは恐らく伯爵に協力したのだろう。
そしてわざわざ人目を忍んで庭師小屋で二人があっていたのなら…。
「掻き集められた証拠資料は小屋の中かもしれないな」
そうエルに言えば、彼女はたちまち瞳を輝かせた。
「信じてくださるんですか?」
「ああ。貴女が信じているなら、私も彼を信じよう」
そこまでエルに信用されている彼に嫉妬を覚えなくもないが、兄同様に慕っていたなら仕方ない。
これ以上意地悪な問答を続ければ、真実が傷つけるより先に私がエルを傷つけてしまう。
心配する気持ちがどんなに強くとも、自分で彼女を悲しませては本末転倒過ぎるというものだ。
隣ではアルも彼女の言葉に納得している。
静かにやり取りを見守っていたクラウスも安堵の表情を浮かべている。
ならば小屋を確かめるのが先決だ。
仮に何も見つからなければその時に次の可能性を探ればいい。
「エル、庭師小屋に案内してくれ」
「はい!」
彼女は力強く頷いて、花びらのようなドレスの裾を翻した。
続く