伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.29 前編
必死に彼の背中にしがみついて、田園風景が広がる農村地帯を抜けた先に現れたのは、まるで生き物全てが死にかけているかのような、そんな殺伐とした暗い町並みだった。
ほんの少し風がそよいだだけで土埃が巻き上がる。
通りを歩く人々の横顔は翳り、飼われているのか野良なのか分からない動物たちは皆やせ細って肋骨が浮き出ている。
家屋が並ぶ道の向うには枯れ果てた田畑が見えた。
申し訳程度に細く伸びた作物が点々と生えているだけで、とても収穫などできそうにない。
活気を失った灰色の町。
規模はアウシュタイナー領の半分程。
同じように農業や畜産業を営み、自給自足を少し上回る程度には余裕もあったはずだ。
それが今では辺りを見回せば軒並み建てられている家屋は古びて脆く、壁のあちこちから塗りこまれたはずの土や藁が顔を出す程に崩れ、賑わいなど一切ない。
甲高い声できゃらきゃら笑ったり、駆け回ったりして遊ぶ子供の姿も見えず、通りにいる子供たちは声もなくしゃがみ込んでいるだけだった。
一方で町の中心にはとてもこの光景にそぐわない、場違いなほど煌びやかなお屋敷が建てられている。
白壁に大きな門、はめられている格子は黒く、先を槍のように尖らせた排他的なもので、侵入者も逃亡者も許さないような造りだ。
そんな場所にも模様に沿って金が施され、自らの財力を周囲に見せつけているようだ。
青々とした芝生の広がる明るい中庭に、清らかな水の流れる噴水。
うっとりするような庭だけれど、黒光りするような毛並みを誇る猟犬が何頭も放し飼いにされている。
側には食い散らかされた肉片も転がっていた。
血生臭い。
相反するものが存在する混沌とした場所。
いよいよなんだ。
馬上からお屋敷を見上げる。
ここに男爵がいる。
もう二度と会いたくないと思っていたけど、お父様とハインツのためなら男爵に会うのも怖くない。
何よりディー様がいてくれる。
だから大丈夫。
緊張してうるさいくらいに脈打つ鼓動を耳の奥で聞きながら、ぎゅっと腕に力をこめる。
すると気付いたディー様は穏やかな瞳で振り向いた。
「覚悟はいいか?」
「はい」
「…緊張している?」
「はい」
「怖くないか?」
「はい」
「帰ったらご褒美にまたケーキを食べさせてあげよう」
「はい」
「もちろん私の手ずからだ」
「はい。…ん?」
「私にも食べさせてくれると嬉しい」
「えっ、ちょ、ディー様!?」
「楽しみにしているぞ」
「あのっ、でも」
「舌をかむから口を閉じて」
「わっ」
何だかとてつもなく恥ずかしい約束を取り付けられた気がするんですが!!
ディー様は楽しげに笑って手綱を引く。
馬はたちまち男爵の屋敷に向かって走り出した。
同行しているバウムガルト家の衛兵たちが門を押し開け、素早くそれぞれの配置に着く。
彼らは放たれている猟犬をさっと取り押さえると、低い唸り声を上げる犬たちに轡をはめて黙らせた。
ディー様は力強く駆ける馬の勢いのまま、屋敷の入口を閉ざす重々しい木製の扉まで一気に駆け抜ける。
出入り口になりそうな場所は全て衛兵たちが包囲している。
男爵の逃げ道はない。
馬を降りて数人の衛兵たちと扉を開くと、そこにはたった一人、初老の執事が佇んでいた。
こちらに折り目正しく丁寧にお辞儀する。
そしてスッと、手を開いてある方向を示した。
「お待ち申し上げておりました。旦那様はあちらにおいでです」
「あなたは立派な執事だ。これで良いのですね?」
敬意を表しながらディー様が丁寧に問いかけると、執事長と思しき白髪の紳士は固く瞼を閉じた。
「私たち使用人の主人は彼ではございません。あくまでも前アウラー男爵様です。遺言をお守りするために留まっておりましたが、それももうお終いでございます」
「何故?」
「私が60の歳を迎えるまで、というお約束でしたので。最後にささやかではございますが、ちょっとした意趣返しをさせていただきました」
「というと?」
「大きな袋…と申しますには四角く硬いのですが、その中にこれまた大きめのネズミがおります。今頃は飼い犬に手を噛まれた状態ですので、少々騒いでおいでかもしれませんが…」
「なるほど」
「後の事はよろしくお願い申し上げます」
彼は最後に清々しい微笑みを浮かべて、ゆっくりと頭を下げた。
必死に彼の背中にしがみついて、田園風景が広がる農村地帯を抜けた先に現れたのは、まるで生き物全てが死にかけているかのような、そんな殺伐とした暗い町並みだった。
ほんの少し風がそよいだだけで土埃が巻き上がる。
通りを歩く人々の横顔は翳り、飼われているのか野良なのか分からない動物たちは皆やせ細って肋骨が浮き出ている。
家屋が並ぶ道の向うには枯れ果てた田畑が見えた。
申し訳程度に細く伸びた作物が点々と生えているだけで、とても収穫などできそうにない。
活気を失った灰色の町。
規模はアウシュタイナー領の半分程。
同じように農業や畜産業を営み、自給自足を少し上回る程度には余裕もあったはずだ。
それが今では辺りを見回せば軒並み建てられている家屋は古びて脆く、壁のあちこちから塗りこまれたはずの土や藁が顔を出す程に崩れ、賑わいなど一切ない。
甲高い声できゃらきゃら笑ったり、駆け回ったりして遊ぶ子供の姿も見えず、通りにいる子供たちは声もなくしゃがみ込んでいるだけだった。
一方で町の中心にはとてもこの光景にそぐわない、場違いなほど煌びやかなお屋敷が建てられている。
白壁に大きな門、はめられている格子は黒く、先を槍のように尖らせた排他的なもので、侵入者も逃亡者も許さないような造りだ。
そんな場所にも模様に沿って金が施され、自らの財力を周囲に見せつけているようだ。
青々とした芝生の広がる明るい中庭に、清らかな水の流れる噴水。
うっとりするような庭だけれど、黒光りするような毛並みを誇る猟犬が何頭も放し飼いにされている。
側には食い散らかされた肉片も転がっていた。
血生臭い。
相反するものが存在する混沌とした場所。
いよいよなんだ。
馬上からお屋敷を見上げる。
ここに男爵がいる。
もう二度と会いたくないと思っていたけど、お父様とハインツのためなら男爵に会うのも怖くない。
何よりディー様がいてくれる。
だから大丈夫。
緊張してうるさいくらいに脈打つ鼓動を耳の奥で聞きながら、ぎゅっと腕に力をこめる。
すると気付いたディー様は穏やかな瞳で振り向いた。
「覚悟はいいか?」
「はい」
「…緊張している?」
「はい」
「怖くないか?」
「はい」
「帰ったらご褒美にまたケーキを食べさせてあげよう」
「はい」
「もちろん私の手ずからだ」
「はい。…ん?」
「私にも食べさせてくれると嬉しい」
「えっ、ちょ、ディー様!?」
「楽しみにしているぞ」
「あのっ、でも」
「舌をかむから口を閉じて」
「わっ」
何だかとてつもなく恥ずかしい約束を取り付けられた気がするんですが!!
ディー様は楽しげに笑って手綱を引く。
馬はたちまち男爵の屋敷に向かって走り出した。
同行しているバウムガルト家の衛兵たちが門を押し開け、素早くそれぞれの配置に着く。
彼らは放たれている猟犬をさっと取り押さえると、低い唸り声を上げる犬たちに轡をはめて黙らせた。
ディー様は力強く駆ける馬の勢いのまま、屋敷の入口を閉ざす重々しい木製の扉まで一気に駆け抜ける。
出入り口になりそうな場所は全て衛兵たちが包囲している。
男爵の逃げ道はない。
馬を降りて数人の衛兵たちと扉を開くと、そこにはたった一人、初老の執事が佇んでいた。
こちらに折り目正しく丁寧にお辞儀する。
そしてスッと、手を開いてある方向を示した。
「お待ち申し上げておりました。旦那様はあちらにおいでです」
「あなたは立派な執事だ。これで良いのですね?」
敬意を表しながらディー様が丁寧に問いかけると、執事長と思しき白髪の紳士は固く瞼を閉じた。
「私たち使用人の主人は彼ではございません。あくまでも前アウラー男爵様です。遺言をお守りするために留まっておりましたが、それももうお終いでございます」
「何故?」
「私が60の歳を迎えるまで、というお約束でしたので。最後にささやかではございますが、ちょっとした意趣返しをさせていただきました」
「というと?」
「大きな袋…と申しますには四角く硬いのですが、その中にこれまた大きめのネズミがおります。今頃は飼い犬に手を噛まれた状態ですので、少々騒いでおいでかもしれませんが…」
「なるほど」
「後の事はよろしくお願い申し上げます」
彼は最後に清々しい微笑みを浮かべて、ゆっくりと頭を下げた。