伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.34(ディー視点)



 これが「幸せ」なんだと思う。
 すやすやと静かな寝息を立てて眠る彼女の横顔を見て思わず頬が緩む。
 まだ朱に染まった柔らかな頬を撫でれば、ひくりと白い瞼が震えた。
 昨夜の疲労と眠気を纏った瞳がゆっくりと開く。
 肌を伝って交わされる互いの体温が心地いい。
「おはよう」
「…ディー、様…」
「もう朝だ」
「朝…?…あ、さ…朝!?」
 急激に覚醒したらしいエルは突如勢いよく体を起こしかける、が。
「っ!?」
 ぼすっ
 起き上がることなくベッドに沈んだ。
「大丈夫か?」
「痛い、です」
 涙目で訴えてくる。
 そんな顔をしても可愛らしいだけだというのに。
 約束が反故になった事を怒っているのだろうか。
 一瞬そんなことが脳裏をよぎったが、すぐにそれはないのだと安堵する。
 何故ならエルはもぞもぞとベッドの中に体を潜らせ、頭まで毛布をすっぽり被ってから私の胸に額をくっつけてきた。
 ふむ。
 これはこれで大問題なのだが。
 ひとまず抱きしめながら痛んでいるらしい箇所に手を当ててやると、くすぐったいのかエルは小さく笑い声をあげて身を捩った。
 朝から素晴らしい無自覚攻撃だ。
 こんなことをされてどうしろと?
「エル、私は皆が思う程無知ではないし、聖人君子でもないんだ」
「?」
「これでも「雄」の一人なんだがな」
「男性、ではなく?」
「朝は本能の方が強いらしい」
「…!?」
 少し強く抱きしめれば、その意味がエルにも理解できたらしい。
 当然だ、今や私の中心も元気に反応している。
 が。
「心配するな。何もしないから」
 痛みを訴える彼女にこれ以上痛い思いはさせられない。
 確かに聖人君子ではないが、本能で生きる欲望に忠実な獣でもないからな。
「私が優先するのはいつだって貴女だよ」
 そう告げれば、恥ずかしげに毛布に隠れていたはずの彼女がひょこっと顔を上げた。
 何か思案してこちらをじっと見つめる。
「エル?」
「あの…その、呼び方、変えませんか?」
「それなら…エルフリーデ?愛しい人?ハニー?マイスイート?ああ、シュテルン!」
「違います!名前じゃなくて、貴女、って呼び方の方です。とっても大切にされてる事は分かってるんですけど…ちょっとだけ、距離がある気がして…寂しい、です」
 おや。
 まるで子犬のような瞳でそんな事を言うなんて。
 無自覚、無意識、無防備。
 最強の3無い運動を実施しているらしいエルの可愛いお願いだ、私が断るはずもない。
「貴女、でないなら…「君」にしようか」
「ふふ。はい。これでやっと、ディー様の一番近くに来られた気がします」
「私もだ。昨夜は最高の夜だった…。最後まで優しく出来なかったのはすまなかった」
「大丈夫です。ちゃんと、優しかったですよ?」
「そうだろうか。本で読むのと実際に触れるのとでは全然違う」
「本?」
「エルの体は驚くほど柔らかかったから、壊してしまいそうで心配だった。何しろ初めての事だからな、知識だけ詰め込んでもダメだという事がよく分かったよ」
「…初めて、って…」
 エルは素直に驚いた表情を浮かべて目を丸くさせる。
「女性と付き合ったことはないと以前も伝えたはずだが、何故そんなにびっくりする?」
「だって、お付き合いはなくとも、男性はそういう場所に勉強に行くって聞いたことがあります」
「そういう場所?」
「経験は、ステータス、でしょう?」
 真剣な顔で問いかけてくるエルに、何と答えればいいものやら。
 幼い頃の些細なトラウマが脳裏をよぎる。
 思えば私が女性を敬遠してきたのはあのおぞましい記憶を消しきれなかったからだ。
 そう考えると改めてエルに出会えた事は奇跡だった。
「誘われたことはあるが行かなかった。必要な事だと思えなかったからな」
「どうして?」
「女性が苦手だった」
「本当に?煩わしかっただけでなく?」
「ああ。周りにいる女性たちの目が変わったのは私が14・15歳の頃だ。恐らく公爵夫人の座を狙っていたんだろう、次から次へと「手引き」をしてやると言って女性たちが近付いて来た。ねっとりまとわりつくような視線と下品なほどの露出過多、それにむせ返るような香水の匂い…「貞操の危機」という言葉が男にも当てはまるとは思ってもみなかった」
 今思い出しても吐き気がしてくる。
 妙な自信に溢れた女性たちの真っ赤な口紅と厭らしい上目使い。
 あんなものは「誘惑」なんかじゃない「脅迫」だ。
 徹底的にそんな女性たちを避け続け、どんなに美しいと言われる女性が近付こうとも興味も抱かなかった。
 知的に見せたり清楚を装ったり、結局どれもメッキを塗りたくっていたにすぎないが、そんなものはすぐに剥がれるのだ。
 エルのように純粋に私を見つめてくれる女性は一人もいなかった。
 だから。
「運命だな。互いに初めて恋をして、愛し合った。世界中でただ一人の存在だ」
「ロマンチスト、ですね」
「正直な気持ちだから仕方ない」
「嬉しい」
 エルは無自覚に頬を寄せてくる。
 せっかく話をしている間に落ち着いてきたというのに、また敏感に反応してしまうじゃないか。
 肌に触れてしまっているのだからエルだって気付いているはずだ。
 それなのにエルは離れるどころか余計にぎゅっと抱き着いてくる。
 白い頬を真っ赤に染めて。
「エル?」
「私、やっと分かったんです」
「何がだ?」
「ディー様が、その、反応してくださるのは、私を想ってくださってるからだ、って」
「な…」
「だから、運命だって言ってもらえて嬉しいんです。だって私だけ、ってことでしょう?」
「ああ、そうだが…」
 何だか嫌な予感がする。
 キラキラした瞳で嬉しそうにこちらを見つめる視線がまるで危険信号だ。
 危ない、と覚悟したところに
「もう怖くありません。ディー様、大好きです」
 特大のミサイル投下。
 これが本当の誘惑だと思う。
 そしてあっけなく最初の誓いは崩れ去る。
 ここまでされて何もしないで済むはずがない。
 まったく、困った人だ。
 私の自制心をこんなに崩壊させる人は君だけだ。
 ああ、間違いなく、君は運命の人。
 唯一の存在だよ、と囁いて、私はそっと彼女と柔らかな海へ沈むことにした。






 続く
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