伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.36 後編

「どうかこの屋敷を取り壊していただけませんか」
 長老をはじめレッヒェルンの人々が願ったのはそれ一つだった。
「我々にとってここは恐怖と嫌悪の象徴。屋敷が存在し続ける限り、私たちに安息の日々が訪れることはないのです」
 肺の奥から深くこぼれる長いため息とともに眉間にくっきりと皺を刻んで長老はそう言った。
 通常のあいさつよりも丁寧に頭を垂れた私を見たレッヒェルンの人々は驚きの声を上げた後、恐縮しながら慌てて私に駆け寄り、戸惑いながらも心の内に秘めていた想いを口々に話しはじめていた。
 日々の生活がどんなものであったか、実際侯爵によってどんな支配が行われ、どんな被害を被ったのか。
 その身を引き裂かれるほど辛かったのは、大切にいつくしみ育ててきた愛娘を攫われた挙句慰み者にされ、命まで奪われたこと。
 愛する家族を侯爵の気まぐれでところ構わず乱射される銃弾に殺されたこと。
「私たちが望むのは贅沢なんかじゃない。特別な事など何もなくていい。ただ平和に、皆が当たり前の幸せを手にして生きていくことだけなんです。そのためならどんな苦労も厭わない。だが…侯爵様の壁は厚すぎた。私たちが束になったってあの人の脅威に打ち勝つことは出来なかった。その上愛するものを失い、生きる希望をなくしても、死ぬことは許されなかった。彼は勝手に私たちの命を奪っていくくせに、私たちが自害するのを禁じたのです。自らの欲のために」
 人々が死ねば労働力が減る。
 労働力が減れば当然領地の収入が減る。
 収入が減ればもちろん侯爵の贅沢は制限され、自分の欲を好き勝手満たすことは出来なくなる。
 だから侯爵は人々の自害を禁じ、破られた場合には見せしめとして一家全員を死刑にするとしたお触れをだしていたそうだ。
 結果として領民が減るのだから自害を禁じた意味をなさなくなり、大きな矛盾をはらんだ内容になっているのだけれど、自身の欲望を満たすことだけが侯爵の生き甲斐だったのだから矛盾も領民の命も本当はどうでもよかったのだ。
 何て卑劣で何て残酷な人なの…!!
 話を聞きながらこの世にはいない相手にふつふつと怒りが込み上げてくる。
 何が彼をそうさせていたかなんて分からない。
 けれどどんな理由があっても彼がレッヒェルンの人々にしてきたことは許されざること。
 彼らの悲劇を生んだ元凶が住んでいた屋敷がいつまでも存在してたら、彼らの憎しみや悲しみはふとした瞬間に何度も蘇り、彼らの心を苛むだろう。
 屋敷を潰すことで彼らが少しでも救われるのなら、すぐにでもこの屋敷を取り壊そう。
 私は彼ら一人一人の顔を見回しながら
「分かりました。数日中に屋敷を取り壊しましょう」
 とはっきり宣言した。
 もちろんその後の事も考えてある。
 彼らの話を聞きながら私はある事に気付いていた。
 この町にあるのは小さな墓地。
 それも古く寂しげな場所で、新しく埋葬された墓は見当たらない。
 つまり儚く散っていった女性たちは遺体さえ家族の元に返されていないようだった。
 恐らくこの屋敷のどこかに遺棄されているか、カミラのように人知れず遠い場所に遺体を打ち捨てられたのかもしれない。
 だから。
「屋敷跡を花で埋め尽くそうと思います。失われたたくさんの命が、少しでも安らかに眠れるように」
「エルフリーデ様…!!なんと…なんとありがたい事か…!!」
 骨ばった細い長老の手がしっかりと私の両手を包み込む。
 小さな瞳は浮かぶ涙をとめどなく溢れさせていた。
「美しい花をたくさん植えましょう。そして一番きれいに咲き誇る時期に、慰霊祭を行うんです。もう誰に憚ることなく皆さんのご家族を供養できます。慰霊碑や墓石も建てましょう。嘆きに満ちた魂が、天国で心穏やかに過ごせるように。そして次の生を受けられるように」
 心から哀悼の意を込めてそう話すと、一人、また一人と静かに泣き崩れ、小さかった嘆きは大きな嗚咽となり、抑圧されてきた悲しみが涙と共に地面に沁みていく。
 そうして解放された感情はやがて、落ち着きを取り戻すと同時に安堵のため息へと変化していった。
 これほど激しく渦巻く感情を目の当たりにするのは初めてで、ぎゅっと締め付けられた胸が潰れそうなくらい痛む。
 隣で静かに流れを見守っていたディー様が抱きしめてくれなかったら、私も彼らの嘆きを受け止めることは出来なかったかもしれない。
 でもそうして私たちだけでなくレッヒェルンの人々が互いに互いを抱き、支え合う光景を見て、これでいいのだと思えた。
 彼らの頬を伝う涙が安堵の涙に変わったのを見て、ようやく一つ彼らの心に鎮座したままの重りを取り払えたのだと…そう思いたい。
 これでいい?
 ディー様に言葉で問う間でもなく、そっと彼を見上げた瞬間大きく頷くのが見えた。
「大丈夫、レッヒェルンは新たな未来をしっかり歩いていけるはずだよ」
 そう言って温かな掌が髪を撫でてくれる。
 私たちはしばらくの間身を寄せ合いながら、新たな一歩を踏みしめていた。






 続く
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