伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.7


 たった一晩の騒動だったのに、目覚めた体はぐったりと鉛のように重くなっていた。
 泣きすぎたせいか両目が腫れていて、目を開けるのが少し辛い。
 ゼルダが部屋に連れてきてくれたところまでは覚えているけれど、いつごろ眠りについたのかは記憶にない。
 まるで天国から地獄に突き落とされたみたいに気持ちが酷く沈んでいる。
 朝の光に誘われるように窓際へ寄れば、外は穏やかな静けさに覆われて微笑んでいるようだった。
 こんな朝を迎えたのはいつ以来だろう。
 夜が来るのも怖かったけれど、それが朝になるのはもっと怖かった。
 男爵がいつやってくるのか分からなかったし、彼の黒い企みがいつ始まるとも知れなかったから。
 けれど今は違う。
 突然彼が現れることはないし、水面下で計画された悪巧みに利用されることもなければ、彼に穢されることもない。
 それがどれほど私に大きな平穏をもたらすのか、ようやく実感として理解できた気がする。
 …公爵様は…、ディートリヒ様は、守ってくれたのよね…。
 例え代わりに「妻」という名の傀儡にならなければいけないとしても、彼がくれたこの安堵に満ちた朝は、昨日までとは比べ物にならないほどありがたい。
 分かってる。
 感謝はしてるの。
 私にはどうすることも出来なかった問題を彼はいとも簡単にクリアしてくれた。
 一番の恐怖を取り去ってくれたのは間違いなくディートリヒ様だもの。
 どんな理由があるにせよ、それは確かだから。
 ただ…ショックだった。
 「借金を肩代わりするから私の妻になれ」というのは、アウラー男爵が突き付けた条件とほとんど同じものだったから。
 どうして二人が私を妻にしようとするのか分からないけど、求めているのは同じ「妻」という肩書を持った都合のいい存在。
 その事に気付いてしまったから、余計に悲しかった。
 多分、そういう事。
 だからはっきりとディートリヒ様を拒絶してしまった。
 伸ばされた手を払いのけて、癇癪を起こした子供みたいに大きな声を上げて。
 あんなに嫌悪していたアウラー男爵にさえ、そんな風に拒絶したことなどなかったのに。
 どうしてかしら。
 男爵を敵に回すより、ディートリヒ様を敵に回す方が遥かにリスクだって高い。
 冷静に考えてみれば分かる事だ、社交界追放だって有り得る。
 昨夜の私は何てバカなことをしたんだろう。
 最初から分かっていたことなのに、どうしてあんなに取り乱したの?
 一夜にして色々な事が全て動いて変わってしまったから、パニックを起こしたのかしら。
 それとも結局自分には都合よく利用されるぐらいの価値しかないと思ったから?
 考えるほどに思考は悪い方にばかり向いていく。
 平和な朝に安心した気持ちも、あっという間に重く沈み始めてしまった。
 けれどそんな私の思考を遮るように、コンコンと不意に扉がノックされる。
 視線を向ければそこに現れたのは、車いすに乗ったイリーネ様とゼルダだった。
 イリーネ様は落ち着いた赤茶色でレースがふんだんにあしらわれたドレスを身に着け、クルクルと巻いた髪を愛らしく二つに結い、小さな手を振っている。
 ゼルダは昨夜と同じ温かな笑みを浮かべながら、その手にはトレイに乗せた食事を用意していた。
「エルお姉様!」
「イリーネ様…それにゼルダも…一体どうして…?」
「朝食がまだでしょう?だからゼルダに用意してもらったの!」
「よくお休みになれましたか?」
 ゼルダの声はどこまでも優しくて温かい。
 急に鼻の奥がつんとする。
 こんなふうに優しくされたら泣いてしまいそう。
 二人とも本当はすごく心配してくれているんだ。
 昨夜の顛末をゼルダは知っているし、きっとイリーネ様も知っているんだろう。
 本当なら叱られても当然なことをしたのは私なのに、探りを入れることもなく、二人は何事もなかったかのように接してくれる。
 ゼルダは持ってきてくれた朝食をテーブルに置くと、私の背後に回って手早く髪を一つに束ねてくれた。
 椅子に座れば、トレイの上でこんがりきつね色になったフレンチトーストの香ばしい香りとメープルシロップの甘い香りが鼻をくすぐった。
 二人は視線で私に朝食を促してくれた。
 美味しそうなトーストを一口頬張る。
 それは見た目や香り以上に美味しくて、やっぱり胸がぎゅっとなる。
 気付けばまともな食事も久しぶりの事だった。
 誰もいない家で一人きりの食事を摂るのは寂しいだけで、ほとんど紅茶とお菓子だけで済ませていたから。
 側にいてくれる人がいるだけで、こんなにも違う。
 ほんの数日だったけれど完全に一人きりだった時間は私の心を蝕んでいたのかもしれない。
 募るのは孤独感と恐怖と嫌悪と絶望ばかりで、私を世界から完全に切り離していたんだ。
 だから…あの時ディートリヒ様の手を簡単にとってしまったのかしら…。
 食事をする手が止まる。
 それからほんの少しすると、ふとイリーネ様の柔らかな視線を感じた。
「ディーお兄様も同じお顔をしていたわ」
 驚くほど大人びた微笑みで、そんなことを言う。
「同じ顔?」
「ええ。何か考えて、思いつめたようなお顔。きっとお兄様は失敗しちゃったのね」
「?」
「お兄様は昔から不器用な人だけれど、大人になるにつれてもっと不器用になったわ。きっとお兄様も悲しかったんだと思うの」
「というと?」
「女の人はみんなお兄様の姿形ばかりに見惚れるでしょう?それに多分お兄様の事をお金や宝石みたいに思ってるんだわ」
「そんな、まさか」
「ううん本当よ。そんな女の人ばかりお兄様に近付いてくるの。誰もお兄様がどんな人か知ろうともしない。何が好きで何が嫌いかも知らないし、お兄様の趣味が何かも知ろうとしないの。その癖べったりくっつこうとするし、お兄様がどんな女の人を好きになるのか分かりもしないで競い合うのよ。自分が一番ふさわしい、って」
 何となくだけれどすぐにその様子が想像できて、納得できた。
 イリーネ様もまたそんな女性たちを嫌っていることが見て取れる。
 愛らしい顔をしかめて、怒っているようにも見えた。
 以前私がディートリヒ様を見かけた時も似たような状況だったものね。
 派手に飾り立てた女性が甲高い声を上げて、何重にも垣根を作っていた。
 こっそり彼が抜け出しても気付かないくらい夢中で言い争っていたっけ。
「お兄様はすっかり女性が苦手になっちゃって、いつも適当にあしらうだけだったの。心を開けなくなっちゃったのね、女性に対して。だからとっても困ったのよ。好きな人に出会った時に、どうすればいいか分からなかったから」
「…好きな、人?」
「ええ!お兄様はやっと好きな人を見つけたの!」
 初耳だ。
 彼に好きな人がいる?
「待ってください!それならどうして私を妻に?そんなこと…」
「間違いだと、思う?」
「!?」
 にっこりと、大輪の花が綻ぶかのように艶やかな笑みで、イリーネ様は問う。
 一体、なぜ…?
 彼に好きな人がいるならその人を妻にすればいい。
 そうすれば周囲を黙らせることも出来るし、自分だって幸せになれるだろう。
 わざわざ面倒事に巻き込まれながら私を利用する必要なんてない。
 一気に混乱する私を見つめてイリーネ様は楽しげに目を細めた。
「お兄様は大正解よ」
「…どういう、ことですか?」
「初めてなの。ちっともお兄様に興味を持たないし、直接お話ししてもお兄様が「ディートリヒ公爵」だって分からなかった。舞踏会より読書や音楽の方がいいって女性だったみたい。一瞬でお兄様の心を捕えた人なんて初めてだったの。名前も分からない人だったけど、ちゃんと見つかったわ」
 誰の話をしているのか見当がつかない。
 益々私の頭は混乱する。
 けれど相変わらずイリーネ様は楽しそうで、時折笑みが深くなる。
 悪戯をしている子供みたいな目の輝きを浮かべてさえいる。
 こちらの様子をわざと面白がっているようにも見えるけれど、不思議と嫌な感じはしない。
 早く気付いてと言われているみたいで、答えの出せない自分がもどかしい。
 そんな思いを視線に込めると、ふふ、と小さく息を吐いてイリーネ様は肩をすくめた。
「お兄様は約束通りその人をちゃんと連れてきてくれたわ」
「…え…?」
「危ないところだったけど助け出せたの。でもきっとちゃんと気持ちを伝えられなかったのね。お兄様は本当に言葉が下手だから。相手にとって必要な部分を話さないで、短い言葉で全部伝えようとしちゃうの。そのせいでやっと見つけた素敵な人を泣かせちゃったんだわ。あとできつーく叱っておかなくちゃ!」
「…それって…」
「私のお姉様になる大切な人を悲しませちゃだめよ、って」
「まさか…」
「エルお姉様、もうディーお兄様のこと嫌いになっちゃった?」
「あ…え…」
 思いもよらない予想に辿り着いて戸惑う私の手を、小さくて白い手が包み込む。
「もしもまだお兄様を嫌いになっていなかったら、もう一度だけチャンスをあげて?今度はちゃんと伝えられると思うの」
「イリーネ様…?」
 懇願するような彼女の視線に心が揺れる。
 つまり…ディートリヒ様の好きな人は…私…?
「お願い、お姉様」
 彼女の丸い瞳が必死に訴えかけてきたその時
「エル!!」
 バタンと勢いよく扉が開け放たれた。






 続く
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