伯爵令嬢は公爵様と恋をする
Vol.9(ディー視点)



 真紅のドレスに身を包んだエルは、まるで薔薇の花に包まれているかのように美しく咲き誇っていた。
 思わず息を呑んで見惚れてしまう。
 彼女はいつもかけている眼鏡を気にしているようだったが、そんなことは些細なもので、むしろグラスを通してこちらを見つめられると、その知的さが際立つ上に瞳が持つ本来の美しさが凛と輝いて、ドキリとしてしまうほどに魅力的だ。
 早くそれを外して顔を近づけたい。
 そんな貪欲な自分にも気付いてしまう。
 部屋に入った時から心臓が周囲の音をかき消すほどうるさくなり続けるから、せっかく彼女に伝えようと用意した言葉も頭から吹っ飛んでしまいそうになる。
 これではまた昨夜の二の舞だと自分を叱咤し、改めてエルの正面に向き直る。
 するとたちまち心の底から、この愛らしい花を手折られなくてよかったと、そう安堵する思いがこみ上げてきて、結局彼女の是非も聞かずに抱きしめてしまった。
 しかし、驚くほどエルは大人しく腕に収まってくれている。
 おかげで私の口からは、用意したセリフなどではなく、一番彼女に伝えたい本心がするりとこぼれた。
 エルはなぜ私が彼女を望むようになったのかが分からず戸惑っていたが、それも最初のうちだけで、実は互いに直接言葉を交わしたことがあると分かると、華奢な腕をそっと私の背に回してくれた。
 そうして交わす2度目の口づけは、はっきりと脳裏に焼き付くほど甘く柔らかなものとなった。
 名残惜しげに唇を離せば、彼女の潤んだ瞳が目に入る。
 そこに映っているのは間違いなく私だけ。
 その事実が胸を穿つほどの喜びになる。
 もう二度とエルを泣かすまいと心に決めて、用意しておいた小箱を取り出した。
 掌に載せて彼女に差し出すと、エルはきょとんとした顔で小首をかしげる。
「これは誓いだよ」
「誓い?」
「私が貴女を生涯守り抜くという、誓い」
「まあ…。でもどうしよう」
 途端にしょんぼりエルが肩を落とす。
「え?」
 また私は何か間違えたのだろうか。
 心配になって彼女の顔を覗き込むと、エルは小さく息を吐いた。
 眉を下げて、こちらを見上げる。
 待った、そんな表情は反則だ。
 やっと落ち着いた心臓が再び騒ぎ始めてしまう。
「エル、どうしたんだ?教えてくれ」
 訳が分からないままだと蛇の生殺しだ。
 いや、むしろ蛇が飢え死ぬ。
 どうにか上ずりそうになる声を抑えて問いかければ、エルはきゅっと白い指で私の上着にすがりつく。
 ああこら、そんなことをされては冷静でいられなくなる。
 ちぎれそうになる理性を繋ぎとめるのがこれほど大変な事だとは思わなかった。
 どうやら私はエルに何をされても舞い上がってしまうらしい。
 こんな状態でどうすればエルに嫌われず、接することができるのだろう。
 幼い頃から自分の欲求を律する癖はついているが、そんなもの、エルに対しては一切役に立ちそうにない。
 大誤算だ。
 今までどんな女性を前にしても感情が動くことなどなかったから、例え一目惚れしたエルを前にしても冷静でいられると高をくくっていたのだ。
 ところがどうだ、実際は冷静の「れ」の字もないではないか。
 どうにか散らばった理性を総動員しなければ、今すぐにでも強く抱きしめて壊してしまいそうだ。
 が、こうして理性と衝動のはざまで葛藤する私に気付くことなく、エルはさらに憂いを含んだ思案顔でこちらを見つめあげていた。
「エ、エル?」
 今までは女性に迫られても何も感じなかったのに、エルが相手だと迫られているわけでもないのに、縮まった距離の近さに同様しすぎてしまう。
 だから早く答えてほしい。
 そう願いを込めて視線を返すと、エルは落ち込んだように俯いた。
 なぜ?
「エル」
 慰めようと無意識に彼女の髪をなでる。
 すると再びエルは顔を上げて、きゅ、と目をつぶると突然僅かな距離も縮めて、ちゅ、と私の頬で音をさせた。
 …うん?
 随分可愛い音がしたな。
 今のは何だ。
 急激に熱くなる頬に遠のく意識。
 けれど
「ごめんなさい」
 酷く沈んだ声がした。
 一瞬の出来事に沸騰した脳にぼんやり届いたその言葉。
 ごめんなさい?
「な、ぜ?」
 愛らしくも凶暴な悪戯に、理性放棄までカウントダウンの始まった頭で問い返す。
 するとエルは困ったように
「私、本当に何もないんです」
 と言った。
 ふむ。
 おかげでピタリ、と熱が止まる。
 危うく沸騰蒸発しそうになった理性も戻ってきた。
 言葉もなく一方的にあてられた唇は、悪戯ではないようだ。
「何もない、とは?」
「あなたに誓いを立てるのに、渡せる証が何もないんです」
「…だから、キスを?」
「はう」
 真っ赤に照れたせいで返事をしそこなったらしい。
 そんな可愛い反応されたら、こちらはどうすればいいのやら。
 ただ一つ分かったことは、彼女も私と同じくらい不器用で、同じくらい初心なのだという事。
「本当に私たちは似た者同士だな」
「ディートリヒ様?」
「ああ、いい。長ったらしい名前だろう。ディーとでも呼んでくれ。身近な者たちはみんなそう呼ぶんだ」
「じゃあ、ディー…様?」
 こてん、と伺いを立てられたら、もう。
「無理だ」
「えっ?」
 忍耐なんて言葉、金輪際捨ててやろうか。
 この凶悪に愛らしい彼女を前に「我慢」などバカバカしい。
 命がいくつあっても足らなくなる。
 それにここまでエルが心を開いてくれているのだ、だったら彼女の反応を一々心配するよりいっそ嫌われる暇もないほど愛を注げばいいのだ。
 言葉が不自由なら行動で示せばいい。
 私がどれほど貴女を愛しているか。
 自分でも呆れるほど驚いている。
 確かに一目惚れしたことは認めるが、正直ここまで溺れているとは思わなかった。
 彼女がどんな人物か知る必要があるし、そのために話を聞いたりじっくり冷静に接する余裕だってあると思っていた。
 いや、実際彼女を迎えに行くまではそうした余裕も冷静さも持ち合わせていたのだ。
 それが崩壊したのは多分、彼女の泣き崩れる姿を見てしまったから。
 細く小さな体で、必死に全てを背負おうと決意し、それでも恐怖と絶望に一人怯えて震えていたから、たまらなくなったのだ。
 何をまどろっこしいことを考えているんだ、と。
 私以外の誰が彼女を救えるのか。
 誰が彼女を抱きしめてやれるのか、と。
「ディー様?」
 戸惑うように控えめな声で彼女が呼ぶ。
 長年付き合ってきた自分の名前さえ、何か特別なもののように思えてくる。
 こんな感情があるなんて知らなかった。
 エル、貴女は私を急激に成長させてくれたみたいだ。
 開き直るのも悪くない。
「言っただろう?何もなくていいと」
「でも、それじゃ不公平だわ。ディー様は私に色々と与えてくださっているのに」
「貴女は私に何も与えられていない、と?」
「はい」
「それは誤解だ」
「誤解…?」
「無自覚なだけで、私はもうたくさんもらったよ。それに私が欲しいのは一つだから」
 そう伝えれば
「何です?」
 期待に満ちた瞳がこちらを見上げた。
 ああほら、またそんな可愛い顔をする。
 いっそ勘違いしたままの方が貴女のためだったな。
 王子の皮を被った狼がここにいることを、貴女はまだ知らないから。
「私が欲しいのは、貴女の心だよ」
 薄紅色の唇を一つ奪えば、それはどんな果実より甘いと知った。






 続く
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