オクターブ ~縮まるキョリ~


永山くんの発言に、私はぎょっとした。
「泣かせる」だなんて、私、泣いてなんか。
気付かないうちに涙をこぼしてしまっていたのかと思い、慌てて指で目の下をなぞった。
だが、そこはけして濡れてはいなかった。


それに、彼はごく自然に私のことを名前で呼んだ。
詩帆、って。
あの時、学校の階段でそう呼ばれた光景が、一瞬フラッシュバックする。
そうだ、あの時は、春瀬くんが私のことを名前で呼んでいたって、永山くんにそう言われたんだっけ。
名前で呼んでいたから、付き合っているのかと訊かれたんだっけ。


永山くんにとって、女の子を下の名前で呼ぶということは、かなり特別なことなんだろう。
名前で呼ぶということは、友達以上の関係にあるということだ、と。
それで、今この場で、私のことを名前で呼ぶなんて。
こんな状況で、私はうっかりドキドキしてしまう。


永山くんは私の彼氏じゃないし、私は永山くんの彼女じゃない。
そんなことは私自身が何より知っているのに、少女漫画のような展開に私は確かに興奮を覚えた。
ピンチの時に現れるヒーロー。
本当に、出来すぎな状況が私を取り巻いていた。


永山くんは自転車のスタンドをガチャンと乱暴に蹴った。
自転車はやや斜めに傾いた状態で、そこに自立する。
ハンドルから手を離し、永山くんは一歩、二歩とゆっくりこちらに近付いてくる。
そして、私の横まできて永山くんは止まった。


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