狡猾な王子様
ゆっくりと体を離されると、少しだけ不安げな顔をした英二さんと目が合った。


「ここには、いい思い出がないよね?だからせめて、初めてはちゃんとした場所で、って思ってたんだけど」


たしかに、『木漏れ日亭』に来ていた女性たちや佐武さんとのことは、決していい思い出なんかじゃない。


「でも、この部屋に入れてもらえたのは、私だけなんですよね?」


だけど、彼が初めて二階に通してくれた時に話してくれたことを口にして笑えば真剣な表情で頷いてくれたから、迷いなんかないと思えた。


「だったら、それで十分です。英二さんみたいな素敵な人の初めてをひとつでももらえたんですから」


「冬実ちゃん……」


「それに、私……」


眉を寄せた英二さんを真っ直ぐに見つめ、笑みを浮かべる。


「今日がいいんです。今この瞬間、離れたくないって思うから」


きっぱりと想いを紡いだ時、不安は消えていた。


相変わらず緊張と恥ずかしさは残っているけど、そんな感情たちを覆ってしまえそうなほどの想いが背中を押してくれる。


「うん、そうだね」


程なくして、柔らかな笑みを零しながら頷いた彼が、「俺も離れたくないって思うよ」と優しい声音で囁き、そっと唇を塞がれた。

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