掌編小説集

692.お先真っ暗の塩梅は木漏れ日の蓄光‐ホリゾント‐

遠距離恋愛で今週末も会う予定だったのに運悪く風邪をひいてしまった
伝染ってしまったらいけないし言えば心配をかけてしまうから
用事が出来たからと言って会えないことをメールで伝えるしかなかった
上がっていく熱に浮かされながら会いたかったなと呟かずにはいられない

気が付けばいつの間にか眠っていたようで時計を見ればもうすぐ昼になろうとしていた
食欲なんてあまりないけれど薬の為にも何か食べなければと
働かない頭で体を起こせばリビングからカタっと音がした気がして
扉を開ければ居ないはずの彼女が居るからああこれは夢なんだろうと思い至る
こんな都合の良い夢を見れているならば現実には出来ないことをしたい
もっとベタベタと引っ付いていたいけれどそんなことを言って引かれたらと思うと
そんなのは絶対に嫌だから言えなくてもちろん態度にも出せなくて
スキンシップに対して非常に淡白であると思われている現状
格好悪いと思われるような情けないと思われるようなそんな欲望も
自分が見るだけの夢の中ならば思いっきり甘えてもいいだろうと飛びついた

パァッと花が咲いたような笑顔のまま抱き付けば会いたかった寂しかったと零れ落ちる本音
受け止めてくれて抱き締め返してくれて優しく背中も撫でてくれる
温かいお粥を作ってくれていて少しでも食べられますかなんて
子供みたいに食べさせてと我儘を言えば食べさせてくれる至れり尽くせり
誰も居ない人恋しく寒々しい空間に彼女が居るだけでこんなにも暖かい
水分をとって薬も飲んで眠りにつけば現実に戻っても我慢出来るだろう

目を開ければ日が傾き始めていて熱は下がったし現実にも戻ってきたようだ
起き上がろうとしてふらついた拍子に時計にぶつかり落としてしまう
大きな音と増えてしまった動作に溜息を付いて仕方がないと拾おうとすれば
扉を開けて現れた居るはずのない彼女とばっちり目が合って
なんでと驚き過ぎて固まってしまった俺に彼女は少し言いにくそうに
用事なんかではなく浮気ではないかと疑った同僚が面白がって
溜まった有給を消化していいと上司まで許可を出したから
断りきれなくてというか最早上司命令でこちらに来たらしい

用事が出来たわけでも浮気していたわけでもなく俺が風邪だったから結果的に来て良かったと
おでこに手を当てて熱は下がっていそうですねお粥まだありますけど食べられますかなんて
まだという単語に加えて夢の中と同じ聞き方をされて夢は夢ではなかったことに我に返る
色々変なことを言ったと思いますけど風邪のせいですから忘れてください
なんて女々しいことを言って蒸し返すことも出来ずに食べられますと返事しか出来なかった

それからというもの彼女からチラチラと視線を感じることが増えた
気になって尋ねてみても何でもないと気にしないでと繰り返すから
俺には相談出来ないことですかと聞けば仕事のことだからと言葉を濁される
普段仕事のことであればはっきりと断ってくるから彼女らしくない
俺からの視線を十二分に気にしつつも彼女からは本音を隠した言葉の数々
やっぱり風邪で弱っていたとはいえ熱に浮かされていたことを差し引いても
あり得ない夢の続きだと勘違いして我を忘れた態度に引いてしまったに違いない

このままの状態は精神衛生上よろしくないからきっちり鎮火しなければならない
気持ち悪いと言われるのを覚悟して言えば気にしていませんからなんて気遣い
全くもって気にしていないと言い張りながら醸し出す雰囲気はすごく気にしていて
繕うことに失敗してしまったと動揺していることが手に取るように分かる姿に
こっちまで動揺してしまって語気が強くなって言い合い寸前

黙ってしまった彼女は言葉を探すように無言のまま視線を巡らせる
視線を落として小さく言われたのはあの時みたいに笑って欲しい笑いかけて欲しいと
どうやら夢だと勘違いした時に会えた嬉しさを爆発させたあの笑顔のことらしい
彼女への言葉が足りない俺と俺への気持ちに鈍感な彼女
お互いにもう少し甘えて寄り掛かってもいいのかもしれない
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